週刊池田信夫

私のバブル戦後史(4) イトマン事件と「裏社会」の闇

1990年5月14日、大蔵省銀行局の土田正顕局長に、1通の手紙が届いた。「拝啓 土田銀行局長様 私共は伊藤萬の従業員であります」で始まるその手紙には「伊藤萬が6000億円の不良債権を抱えている」という驚くべき数字とその内訳が書かれており、大蔵省も「怪文書ではない」と考えていた。

これは明らかに普通の従業員が書いたものではなく、役員クラスの情報だった。筆者が何者かはわからなかったが、その後の事態の展開でこの告発は正しいことが証明された。最終的に住友銀行がイトマン(最終的には住金物産)に対して放棄した債権は約3000億円だったので、不良債権の半分が闇に消えたことになる。

住友銀行秘史
國重惇史
講談社
2016-10-06


世界のバンカー磯田一郎を籠絡した組織暴力

1990年3月の3業種規制(不動産融資の総量規制)は不動産・建設・ノンバンクの3業種が対象だったが、そこには商社がなかった。このため大阪の中堅商社イトマンが住銀の迂回融資に利用された。それ自体はどこの銀行にもあったが、イトマンの特異な点は、組織暴力とのつながりが噂されたことだった。

住銀の会長は磯田一郎。かつては時価総額世界第3位の住銀の会長として「バンカー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた名経営者だが、大阪を本店とする住銀を全国銀行にしたいという野心から、ハイリスクの事業に手を染めた。

その最初は1985年の平和相互銀行の買収だった。関東に支店網を広げたかった磯田はイトマンの河村良彦社長を使って川崎定徳の佐藤茂に迂回融資し、400億円で創業家のもっていた株を買い取らせたのだ。

佐藤は小指がないことで知られていたので、これはきわどい勝負だったが、結果的には佐藤は約束を守り、住銀は平和相互の買収に成功した。その経営は乱脈だったが、多くの支店が駅前の一等地に建っていたので、不動産を売却して最終的にはプラスになった。

日本社会では借地借家法と司法の制約で法的な所有権の移転がむずかしいので、不動産では地上げ屋で暴力団が稼ぎ、株式では仕手筋のような形で組織暴力団がからんだ。このため銀行が不動産融資で業績を上げるためには(直接・間接に)組織暴力とのつながりが避けられなかったのだ。

この事件で裏社会を使ってもうけたことは、磯田にとって悪しき成功体験になった。彼の威光はますます高まり、その「向こう傷は問わない」経営は、バブル期のモデルになって世界から絶賛された。

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私のバブル戦後史(2)

1980年代後半に起こった不動産バブルは、必然的な出来事ではなかった。それは信じられないほど多くの判断の誤りが複合した競合脱線だった。その原因は当時、渦中にいた企業にも行政にも、取材した私にもわからなかったが、あえて結果論で整理してみよう。


バブルはレーガン政権の放漫財政から始まった

私が日米通商問題の取材班に入ったのは1985年の初めだった。アメリカから「製品輸入の拡大」などの要求がつきつけられたのだが、最初は「貿易摩擦」とは何のことかわからなかった。確かに日本の貿易黒字は大きかったが、それは日本の自動車や電機製品が海外で売れているからで、不公正な貿易をしているわけではなかったからだ。

しかしアメリカにとっては違った。当時はレーガン政権がいわゆるレーガノミックスを打ち出した時期だった。これはイギリスのサッチャー政権のまねで「小さな政府」の政策だったが、レーガンにはその論理がよくわからなかったので、富裕層向けの大減税とともに軍備拡張をやった。

これは小さな政府どころか莫大な財政赤字をもたらし、長期金利が上がった。しかも当時インフレを沈静化するため、FRB(連邦準備制度理事会)のボルカー議長が政策金利(FF金利)を最高20%まで上げる超高金利だったため、世界中からアメリカに資金が流入し、1ドル=250円まで上がった。これは購買力平価(PPP)をはるかに上回るレートだった。

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この財政と貿易の双子の赤字のおかげで中西部の製造業は競争力を失って不況になり、「ラストベルト」(さびついた工業地帯)と呼ばれるようになった。この原因はレーガン政権の放漫財政だったので、それを軌道修正すべきだったが、どこの国でも減税は容易だが歳出カットはきらわれる。

こうした国内の不満を外に向けるため、レーガン政権は日本を非難のターゲットにした。日本の工業製品の関税はほぼゼロだったが、アメリカ製品が売れないのは「不公正貿易」のためだと難癖をつけ、下院議員が東芝のラジカセを議会の前で壊すジャパン・バッシングのパフォーマンスをやった。

貿易摩擦はこのようにアメリカの国内問題を日本の「不公正貿易」にすり替えたものだったが、その最大の焦点は為替レートだった。貿易収支が為替レートで決まるというのは錯覚で、円高になった後も日本の貿易黒字は減らなかったが、当時は日本も円高に協力し、円高に誘導しようと考えたのだ。

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私のバブル戦後史(1)

今週からブログとnoteのメンバーシップに共通の記事を毎週月曜に連載する。時事的な話題は今まで通りアゴラに書くが、こっちでは私の個人史をシリーズで書いてみたい。

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この歳になると人生を振り返ってみたい気分になるが、「私の履歴書」なんて誰も興味ないと思うので、私の人生の折り返し点だった1990年以降の歴史を一人称で書いてみる。あれが戦後日本の分岐点でもあったからだ。

バブルは戦争体験のようなものである。後から「あれは愚かだった」というのは誰でもいえるが、その最中に「これはバブルだ」といった人はいなかった。いま高市政権で「国債バブル」が崩壊し始めているが、それを同時代に経験した感覚を思い出し、2度と同じ過ちをおかさないようにする必要がある。

西新宿を「焼け跡」にした地上げ屋

不動産バブルの始まりは、いま思えば1985年9月のプラザ合意だったが、当時は誰も気づかなかった。私はNHKの「ニュースセンター9時」の経済班にいたが、最初にそういう番組をつくったのは「神田から古本屋がなくなる」という企画ニュースだった。

神田神保町の古本屋街には老舗が多かったが、1985年ごろから廃業する店が急に増えたのだ。事情を聞いてみると地上げ屋というこわい業者が出没しているという。

地価上昇はその前から始まっていたが、1985年に金融緩和が始まったころから、東京の都心に地上げ屋が急に増えた。当時は「底地買い」と「地上げ」は別で、底地は大地主が一括して所有しているケースが多く、大手ゼネコンなどがビル建設のために一括して買収交渉したが、厄介なのはその土地に住んでいる借家人だった。

借地借家法では借家人の権利が強いので、底地を買収しても借家人を立ち退かせることができず、多額の補償金を要求される。最悪の場合は、用地買収額の7割を借家人が取る場合もあった。これが出て行かないと、底地だけ買ってもビルが建設できない。

そこで借家人を追い出すのが地上げ屋である。これは不動産の仲介業者ではなく、その委託を受けて借家人を追い出す業者で、元請けの名前は明かさなかった。大手不動産業者だとわかると、足元を見られて高値を吹っかけられるからだ。

地上げ屋には、今でいう反社が多かったが、暴力で追い出すと警察が来るので、暴力以外のあらゆる手段を使って借家人を追い出す。よくあるのは家の前に生ゴミや排泄物などを毎日置くいやがらせだった。家の前で右翼の街宣車が1日中がなり立てることもあった。借家人が根負けして出て行くまでいやがらせをした。

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再開発前の西新宿6丁目

地上げ屋が猛威をふるったのは、西新宿6丁目だった。都庁が西新宿に移転したあと再開発が進んだが、ビルの谷間に平屋の木造家屋が密集し、権利関係が複雑で用地買収が進んでいなかった。そこに目をつけた地上げ屋が、最上恒産の早坂太吉である。

早坂は同和問題をネタにして不動産でもうける「エセ同和」の大物、尾崎清光の子分だったが、分け前をめぐって喧嘩別れした後、尾崎は入院中の病院で殺害された。早坂は警察の取り調べを受けたが不起訴となり、事件は迷宮入りになった。

この事件を早坂は「おれは殺しの容疑で逮捕された男だ」と借家人を脅す殺し文句に使った。最初は早坂が借家人を脅して追い出し、細切れの土地を集めて地主に渡す。その資金源は第一相互銀行で、資金源はフジタ工業だった。売却額は470億円で、最上恒産は186億円の利益を得て、1986年の申告所得は前年度の380倍になって業界を驚かせた。

しかし早坂は所得税法違反で逮捕され、1993年に最上恒産は倒産。早坂が地上げした土地は空き地のままになり、焼け跡のような状態になった。その後も再開発は続けられ、バブルの遺産が消えたのは2010年代に入ってからである。

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私のバブル戦後史(6) 山一証券はなぜ「自主廃業」したのか

不動産バブルの崩壊は、最初は大した問題ではなかった。不動産業界は壊滅したが、製造業はほとんど影響を受けなかった。株価は下がったが、GDPは1990年代前半も上がっていた。それが日本経済全体の問題になったのは、1997年11月である。

日銀の白川元総裁は、著書『中央銀行』の中で「90年代の日本の金融危機で最も決定的な瞬間は何かと問われれば、私は三洋証券のコールローンのデフォルトだと答えるだろう」と書いている。三洋証券といわれても今では知っている人は少ないが、小さな証券会社の破綻が思いもよらぬバタフライ効果を起こしたのだ。

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最初はたった10億円のデフォルトだった

三洋証券は兜町の地場証券だったが、バブルに乗って体育館のような巨大トレーディングルームをつくり、トレーダーがエレベーターで上り降りするテレビコマーシャルを流していた。

その放漫経営が仇となり、1997年11月3日に会社更生法の適用を申請した。負債総額は約3700億円で、それ自体は大きなニュースではなかったが、その翌日にインターバンク市場(無担保コール翌日物)で、10億円の債務不履行を起こった。

コールローンは金融機関が日常的に資金を融通する市場で、ほぼゼロ金利で担保も取らない。それがデフォルトになることはまったく想定していないからだ。万が一デフォルトが起こった場合には、日銀が特別融資することになっている。

ところがこの日は日銀特融がおこなわれず、群馬中央信用金庫が三洋証券に貸した10億円が回収不能になってしまった。この原因には諸説あり、日銀が証券会社は銀行ではないので特融の対象ではないと判断したといわれたが、日銀の担当者は大蔵省証券局が連絡しなかったという。

だがそれまで金融機関の経営状態に関心をもたなかったマーケットで、デフォルトが起こった衝撃は大きかった。短期資金の市場は凍りつき、銀行がコールローンに出していた資金を引き上げた。

このため経営危機が噂されていた銀行の資金繰りが苦しくなり、11月17日には北海道拓殖銀行が破綻し、北洋銀行に営業譲渡した。その次にねらわれたのが山一証券だった。

なぜ会社更生法を選ばなかったのか

山一証券は四大証券の一角で経営不振だったが、証券会社には銀行のような信用創造はできないので、顧客の払い込んだ資金と証券は1対1に対応している。このため三洋証券が破綻したときも、山一が危ないという話はなかった。

ところが11月24日に、山一が突然、自主廃業を発表した。このとき野沢社長が涙ながらに「私らが悪いんであって、社員は悪くありません」と訴えたシーンは有名である。

会社更生法は債権債務を整理する法律なので会社は存続する場合もあるが、自主廃業は証券業の免許を停止して会社を消滅させるもので、適用されたのは山一が初めてだった。山一の役員は「会社更生法は覚悟していたが、自主廃業とは最初は何のことかわからなかった」と述懐した。

この背景には、2600億円の簿外債務の問題があった。これは山一が顧客に損失補填した債務を連結対象外の海外子会社などに「飛ばし」で移し替えたもので、東急百貨店などの顧客と紛争が起こっていた。

野沢は社長就任後にこの簿外債務の話を聞き、11月14日に大蔵省証券局の長野局長に相談した。長野は「もっと早く来ると思ってました。三洋証券とは違うのでバックアップしましょう」と支援する意向を示した。

長野局長はなぜ「自主廃業」を申し渡したのか

ところが11月19日に野沢が支援について相談に訪れたとき、長野は一転して「感情を交えずに淡々といいます。自主廃業を選択してもらいたい。金融機関としてこんな信用のない会社に免許を与えることはできない」と言い渡した。

自主廃業を発表した記者会見で、長野局長は「マーケットが無理をとがめる動きはビッグバンをやりたい人間としては望ましい」と述べた。

この5日間に何があったのか。長野がのちに国会で説明したのは「会社更生法だと債権者が膨大になって取り付けが起こる」という理由だったが、これはおかしい。会社更生法を申請しても営業を続け、顧客に返金することは可能である。山一は資産超過だったので、日銀が支援すれば返済は可能だった。

裁判を恐れた大蔵省

会社更生法の適用に裁判所が難色を示したという説もある。山一の負債総額は約3.5兆円と三洋証券の10倍であり、飛ばしという違法行為もあるので、会社更生法を適用できないというのだが、この説明もおかしい。

損失補填したのは山一だけではなく、1992年までは合法だった。ほとんどは営業特金(特定金銭信託)などの一任勘定だったので、値下がりは法的には顧客の損失であり、証券会社の債務ではなかった。

簿外債務はオフバランスなので、連結財務諸表に記載しないことは違法ではなかった。裁判で争えば山一の債務ではないという判決が出る可能性もあった。

問題は、長野の前任者の松野局長が飛ばしを認めていた事実である。山一の調査委員会がつくった社内調査報告書には、三木が副社長だった1992年に松野が「東急百貨店ともめているそうですが、どうするのですか。大和(証券)は海外に飛ばすそうですよ」と言ったと書かれている。

つまり証券局長が損失を海外に飛ばすことを示唆したのだ。こうした経緯は会社更生法を申請すると破産管財人が把握し、大蔵省が責任を問われる可能性もある。大蔵省は、裁判を避けるために自主廃業という異例の手続きを選んだのではないか。

最悪のタイミングで始めた「日本版ビッグバン」

1995年に長野に討論番組に出演してもらったことがあるが、彼は41年入省組の出世頭の一人で、日本版ビッグバンの中心人物だった。不良債権処理を機に日本の金融機関を抜本改革しようと考え「護送船団方式から訣別する」と語った。

彼にとって山一の破綻は、ビッグバンの実験場だった。それは護送船団方式から訣別してモラルハザードをなくす決意だったのだろう。これは彼独自の考えではなく、政府が「大きすぎてつぶせない」(too big to fail)銀行を保護することがモラルハザードをもたらすというのは、金融業界の通念だった。

普通の企業は破綻処理で清算することがあるが、銀行は清算できない。債権者(預金者)が多すぎるからだ。特に大手銀行を破綻処理すると、決済機能が崩壊して金融危機になるので、政府は銀行を救済する。しかし破綻しても必ず救済されるとわかっていると、大手銀行は過剰なリスクをとるようになる。

そういうモラルハザードを防ぐためには、銀行も破綻処理すべきだという意見が経済学者にも多かった。長野は、これを実行したのだ。それに成功すれば、事務次官も夢ではなかった。

取り付けはメインバンクに起こった

しかしこの判断は裏目に出た。四大証券の一角が消滅するという前代未聞の事件に人々は驚き、取り付けが始まったのだ。山一は廃業するまで営業を続けたので大きな問題は起こらなかったが、そのメインバンク富士銀行に取り付けが起こった。

取り付けというと銀行の店頭に預金者が行列する光景を思い浮かべる人が多いが、あれは昭和恐慌などの昔の話である。今は銀行の預金の中で最大なのは企業の大口定期預金であり、一瞬で数億円が電子的に引き出されるのだ。

実は三洋証券の破綻のあと、拓銀の次は山一だという噂がかけめぐり、そのメインバンクである富士銀行の資金繰りが危なくなっていた。私の友人は当時、資金繰りの担当者だったが、11月に入ってつなぎ融資の約束が打ち切られたという。

通常はこういうときメインバンクが救済するが、その富士銀行の資金繰りがつかないので救済できない。結果的には日銀が緊急融資で山一の債務をすべて肩代わりして富士銀行を救済し、最終的には日銀が1100億円の損失を計上した。

モラルハザードという神話

おかげで「日本発の世界恐慌」は起こらなかったが、これは当時はそれほど注目されなかった。この教訓を日銀が世界に伝えていたら、2008年にアメリカ財務省はリーマンブラザーズを破綻させなかったかもしれない。

銀行をつねに救済するとモラルハザードが起こるというのは神話である。いくら救済されるとわかっていても、みずから会社をつぶす経営者はいない。火災保険がかかっているからといって、自宅に火をつける人がいないのと同じだ。

だから政府や中央銀行は、事後的には大手銀行に迅速に資本注入すべきだ。火事が起こってから火を消すことをためらってはいけない。これは事前に防火対策をする必要がないという意味ではない。銀行の財務の健全化は必要だが、両者は別の問題なのだ。

銀行救済は、政治的には評判が悪い。銀行は「自己責任」で不良債権を処理せよという勧善懲悪の論調が、1990年代の日本でも支配的だった。おかげで処理には10年以上かかり、経済に大きなダメージを与えた。金融危機は、このような応報感情でつくられるのだ。

私のバブル戦後史(5) 住専という迷宮

「住専」といっても今はわかる人が少ないだろう。住宅金融専門会社。1970年代に都市銀行が住宅ローンなどの小口融資を代行させるために設立したノンバンクだが、金融自由化で大手企業が銀行から借りなくなったので、バブル期には銀行が住宅ローンを扱うようになった。

銀行の貸し出し金利は子会社の住専より安かったので、ハシゴをはずされた住専はあやしい不動産融資に走り、バブル崩壊の直撃を受けた。不良債権問題の主役となり、Jusenは世界の金融業界に通じる言葉になった。

追跡・不良債権12兆円

私は1992年11月に「追跡・不良債権12兆円」というNHKスペシャルをつくった。これは住専が巨額の不良債権を抱えているという番組で、不良債権というタイトルをつけた番組は日本で初めてだった。

当時、住専の最大手、日住金(日本住宅金融)が取引先に出した「回収不能な債権が4500億円」と書かれた秘密報告書が、銀行業界に大きな衝撃を与えた。これを私がニュースセンター9時で報じたところ、翌日の日住金の株価がストップ安になって冷やっとした。

これは大蔵省の「不良債権が総額で12兆円」という発表にもとづくものだったが、12兆円という数字は大手銀行の自己申告を集計したざっくりした数字で、そのうち何兆円が回収不能かはわからなかった。

住専は暴力団などのからむ悪質な不良債権を抱えており、まずこれを処理することが最優先のミッションだった。このため宮沢首相が自民党の軽井沢セミナーで「必要ならば銀行に公的援助をすることにやぶさかでない」と言及した。

しかし大蔵省も経団連も公的資金に反対し、マスコミも「バブルでもうかった銀行は、まず自己責任で処理すべきだ」と主張した。宮沢の提言は興銀の中山素平の提言によるものといわれたが、興銀は当時、尾上縫事件の渦中にあり、公的資金を要求できる状況ではなかった。

私の番組にも全銀協(全国銀行協会)の会長が出演する予定だったが、直前になって「タイトルに不良債権と入れるな」とクレームをつけ、われわれが拒否すると欠席した。そこで番組ではもう一人のゲストの野口悠紀雄の隣に空席の椅子を置き、「全銀協の会長はおいでいただけなかった」と司会者が紹介した。

寺村銀行局長の罪

銀行などの預貯金取扱金融機関は会社更生法で破綻処理できない。それは債権者(預金者)が膨大で、破産すると預金者が一斉に預金を引き出す取り付けが起こるからだ。住専は預貯金取扱金融機関ではなく、債権者が銀行だけなので、清算しても取り付けが起こる心配はない。

ところが大蔵省の寺村信行銀行局長は主計局が長く、銀行局に初めて勤務したのが銀行局長だったので、そういう業界の常識がわからなかった。性格も非常に慎重で、銀行局の職員が「寺村局長になってから会議が2倍に増えて決まることが半分に減った」と嘆いていた。

日住金の破綻処理では、母体行(3行)が日住金を清算し、損失をすべて負担するメインバンク方式を提案し、他の銀行や農協系には金利減免を求めたが、農協系は減免を拒否して4.5%の金利を要求した。寺村は農水省と取引し、農協系の債権を保全する代わりに融資を維持する覚書を1993年2月に交わした。これが不良債権処理を迷走させる決定的な分水嶺となった。

このとき母体行は自己資金で処理しようとしたが、寺村はそれを阻止し、農協との取引で問題を先送りした。それが政治問題になったのは、そこから4年近くたった1995年末だったが、そのときには日住金は1兆5000億円の債務超過になり、母体行だけでは処理できなくなっていた。

日本経済より組織防衛を優先した

このころ日銀は「不良債権の損失は総額40兆円を超える」と推定し、銀行を資本増強する案を大蔵省に示したが、寺村はそれを拒否した。公的資金が「銀行救済」と見られて世論の批判を浴びるというのが彼の判断だった。

日銀の白川元総裁は、その回顧録『中央銀行』の中で、この日銀の処理スキームを寺村が拒否したことが不良債権処理の「決定的な分岐点」だったと書いている。

なぜ寺村は処理を先送りしたのか。これについて内閣府のオーラルヒストリーで、彼はこう答えている。

地価がバブル発生前の水準で止まったら、十分対処可能でした。ところが地価は、ピーク時に比べて1994年の50%から04年には10%まで下落します。94年時点から8割近い地価の下落が発生しました。だから不良債権は償却しても償却しても新しく湧き上がってきました。

これは本当だろうか。次の図をみると、確かに1994年には地価はピーク時の半分に下がったが、最終的にはピーク時の1/4ぐらいで下げ止まった。いずれにしても地価が1994年ごろで下げ止まるという見通しは甘過ぎたのだ。

寺村は昭和恐慌の事例を研究し、公的資金を投入するのは銀行が破綻して取り付けが起こり、預金者保護として納得しないと無理だという。大蔵省の組織防衛のためには、取り付けが起こってもかまわないという発想だった。

なぜここまで損失は大きくなったのか

もっと早めに危機が表面化して政府が対応していれば、不良債権処理は早く終わったかもしれない。たとえば住友銀行が1990年11月にイトマンに会社更生法を申請していれば、裁判を通じて不動産の実態が明らかになっただろうが、これも大蔵省(土田銀行局長)が止めた。

不動産の不良債権をすべて清算した2004年に集計された不良債権は112兆円で、そのうち31兆円が回収不能だった。投入された公的資金は46兆円で、そのうち10兆円が回収不能だった。これは確かに巨額だが、いま国債が日銀だけで33兆円の評価損を出しているのと比べると、それほど大きいわけではない。

金融自由化でバブルが起こる現象は日本だけではなく、1990年代に北欧でも金融危機が起こったが、政府が資本注入して銀行を整理し、3年ぐらいで終わった。日本の場合はまず「自己責任」でやるという建前にこだわった。

本当に自己責任でやれるならいいが、住専の場合でも業務純益で処理できるのは都市銀行だけで、彼らが全責任を負う「メインバンク方式」でかろうじて処理する予定だった。ところがそれを寺村銀行局長がつぶしたため、問題が1995年の「住専国会」で表面化したときはもう自己資本で処理できなかった。

ここで問題になったのは、住専を清算すると農協が破産することだった。1990年の三業種規制のとき農協を除外したため、銀行が住専への迂回融資のルートとして農協を使い、住専向け融資の40%を農協系が占めていたのだ。農協は「われわれは被害者だ」と主張し、1994年の覚書を盾にとって元本の返還を求めた。

野党は「銀行は清算の損失を負担するのに農協だけに元本を返還するのはおかしい」と主張し、新進党は座り込みで議事を妨害したが、1995年末に農協系に6850億円を「贈与」する異例の法案が可決され、村山内閣は翌年1月に総辞職した。

大蔵省のプライドが処理の先送りを招いた

この経緯をみると、大蔵省が公的資金をきらったことが共通の原因だった。1992年8月に宮沢首相が公的資金に言及したとき、資本注入の体制をとればよかったのだが、国民の指弾を浴びることをきらって処理を先送りした。その原因は、世論の批判をきらう大蔵省のプライドだった。

その結果、初期には銀行の業務純益で処理できた不良債権が手に負えなくなり、しかも農協への贈与という最悪の形で公的資金を投入したため、1997年11月から始まった金融危機に際しても銀行に資本注入できず、長銀と日債銀が破綻して国有化という荒療治をせざるをえなかった。

今の日本は「国債バブル」というべき状況にあるが、1990年代の経験からいえるのは、金融システムを守るということにつきる。地価や株価が下がっても大した問題ではないが、銀行に波及すると取り付けが起こり、金融システムが崩壊する。

これを防ぐためには、政府が銀行に資本注入するしかない。自己責任で処理しようとすると処理が遅れて不良債権が大きくなり、結果的には日本経済を大混乱に陥れるのだ。

私のバブル戦後史(4) イトマン事件と「裏社会」の闇

1990年5月14日、大蔵省銀行局の土田正顕局長に、1通の手紙が届いた。「拝啓 土田銀行局長様 私共は伊藤萬の従業員であります」で始まるその手紙には「伊藤萬が6000億円の不良債権を抱えている」という驚くべき数字とその内訳が書かれており、大蔵省も「怪文書ではない」と考えていた。

これは明らかに普通の従業員が書いたものではなく、役員クラスの情報だった。筆者が何者かはわからなかったが、その後の事態の展開でこの告発は正しいことが証明された。最終的に住友銀行がイトマン(最終的には住金物産)に対して放棄した債権は約3000億円だったので、不良債権の半分が闇に消えたことになる。

世界のバンカー磯田一郎を籠絡した組織暴力

1990年3月の3業種規制(不動産融資の総量規制)は不動産・建設・ノンバンクの3業種が対象だったが、そこには商社がなかった。このため大阪の中堅商社イトマンが住銀の迂回融資に利用された。それ自体はどこの銀行にもあったが、イトマンの特異な点は、組織暴力とのつながりが噂されたことだった。

住銀の会長は磯田一郎。かつては時価総額世界第3位の住銀の会長として「バンカー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた名経営者だが、大阪を本店とする住銀を全国銀行にしたいという野心から、ハイリスクの事業に手を染めた。

その最初は1985年の平和相互銀行の買収だった。関東に支店網を広げたかった磯田はイトマンの河村良彦社長を使って川崎定徳の佐藤茂に迂回融資し、400億円で創業家のもっていた株を買い取らせたのだ。

佐藤は小指がないことで知られていたので、これはきわどい勝負だったが、結果的には佐藤は約束を守り、住銀は平和相互の買収に成功した。その経営は乱脈だったが、多くの支店が駅前の一等地に建っていたので、不動産を売却して最終的にはプラスになった。

日本社会では借地借家法と司法の制約で法的な所有権の移転がむずかしいので、不動産では地上げ屋で暴力団が稼ぎ、株式では仕手筋のような形で組織暴力団がからんだ。このため銀行が不動産融資で業績を上げるためには(直接・間接に)組織暴力とのつながりが避けられなかったのだ。

この事件で裏社会を使ってもうけたことは、磯田にとって悪しき成功体験になった。彼の威光はますます高まり、その「向こう傷は問わない」経営は、バブル期のモデルになって世界から絶賛された。

メインバンク・システムの終わり

とはいえ住銀が暴力団を直接使うわけには行かないので、そのダミーがイトマンだった。当時は銀行員が不動産の物件を物色して顧客と契約し、あとからノンバンクを使って迂回融資する手法が当たり前だったが、3業種規制でノンバンクが使えなくなったので、商社を使って迂回融資するようになったのだ。

途中から住銀の役員も伊藤寿永光のバックに山口組がいると気づき、融資を止めようとしたが、磯田は伊藤に弱みを握られていたため、抜けるに抜けられなくなった。河村は直接に山口組に脅されていたと思われる(のちに頭蓋骨陥没の重症を負った)。

この結果、住銀はメインバンクとして責任を負い、住金物産に吸収されたイトマンの債務5000億円を債権放棄した。そういう融資契約があったわけではないが、メインバンクがすべての負債を肩代わりする暗黙の契約は、護送船団方式で銀行の超過利潤が保証された時代には成り立つシステムだった。

それもイトマンが最後で、1995年末に火を噴いた住専問題ではメインバンクに体力がなくなっていたので、政府が農協に6850億円を「贈与」する荒唐無稽な処理をせざるをえなくなった。

国重惇史『住友銀行秘史』によると、住銀は1990年11月に会社更生法の適用を大阪地裁に申請する予定で、書類を提出したが、直前に大蔵省銀行局が反対したため、この申請は見送られた。

理由は「地方銀行などに取り付けが起こったら、いつシャッターを下ろし、どうやって預金を払い戻すのか、預金保険法の手順が決まっていない」ということだった。あのとき会社更生法でイトマンを整理していたら、「失われた10年」はなかったかもしれない。

この段階で3000億円以上の債務が法的整理されていれば、他の銀行も破綻処理するきっかけになっただろうが、大蔵省が止めたため、逆に破綻処理はメインバンク方式が前例になってしまった。それは住銀のように体力のある銀行には可能だったが、他の銀行はいたずらに処理を遅らせ、地価はさらに下がって不良債権問題は拡大した。

伊藤寿永光という天才詐欺師

イトマンに入り込んで食い物にしたのは伊藤寿永光という詐欺師だったが、その背後にいたのは許永中という山口組の企業舎弟だった。事件の発端は、伊藤が手形詐欺の被害にあったことから始まる。コスモポリタンの池田保次(山口組系暴力団の元組長)が東京の雅叙園観光ホテルを乗っ取り、その手形を乱発したのだ。

池田の企業買収の資金を融資したのが伊藤だったが、実は雅叙園観光(株)は目黒雅叙園の土地を借りているだけで、その土地の所有権はなかった。したがってホテルを取り壊して再開発する権利もなく、池田の振り出した手形には担保価値がなかった。

もとは雅叙園の創業者が死去したとき、その土地の一部が相続税として物納されて国有地になり、残る土地の一部に雅叙園とは無関係の人物がホテルを建てて雅叙園観光ホテルと名づけた。その会社に大きな担保価値があると錯覚した池田が乗っ取ったのだ。

伊藤はそれを知らないで許永中や南野洋(大阪府民信用組合理事長)と組んで約500億円を融資したが、池田は1988年8月に失踪し、伊藤は彼の乱発した手形の処理に追われた。手形を落とせないと命を取られる可能性もあったので、伊藤は必死に金主を探した。そこにあらわれたのが、磯田に紹介された河村だった。伊藤は雅叙園観光の株式に「1500億円の価値がある」といって河村から融資を引き出したが、その土地は隣の目黒雅叙園のものだった。伊藤は自家用ジェット機を借り、河村をたびたび海外旅行に連れて行って接待した。

河村はすっかり伊藤を信用し、1990年5月には彼を常務取締役にしてしまった。イトマンの資産を食う詐欺師を常務にしたのだから、あとは食い放題だった。伊藤は逮捕されるまでの半年あまりで2000億円近い不動産投資を行い、そのほとんどが闇に消えた。

最初は伊藤もマスコミを抱き込もうとして、NHKのインタビューにも応じた。2時間も立て板に水で明るくさわやかに語る内容は、聞いていると引き込まれたが、後から調べるとすべて嘘だった。まさに天才詐欺師だったが、企業舎弟としては下っ端で、山口組にとっては鉄砲玉だった。

「裏社会」は必要悪だった

磯田も最初は伊藤にだまされて河村を紹介したが、1990年ごろにはおかしいと気づいた。『住友銀行秘史』によると、3月には河村との電話でしきりに「だまされてるんじゃないか」と聞いている。河村は「指の2、3本は折られる」などといっており、だまされているのではなく脅されていたものと思われる。

しかしわれわれがイトマンに融資していた銀行に取材すると、全員が「事件を知ったのは日経の9月の記事だった」という。銀行の融資審査なんてこんなものだ。すべての融資先に細かい審査はしないで、メインバンクの残高だけをみている。イトマンの場合は経営危機になってから住友の融資は増えたので、他行は気づかなかった。

NHKも最初は普通の業績不振だと思っていたが、9月の記事で普通ではないことに気づいた。「バブル」という言葉がまだないころで、最初は「山口組が住友銀行に入り込んでいる」という話は、ほとんど笑い話だったが、そのうち笑えなくなった。用地買収に暴力団がからむのはよくあることだが、ここでまでひどい事件は空前絶後だった。

結果論だが、マスコミがもっと早く報道していれば、住銀の損失も小さくてすみ、会社更生法の申請も可能だったかもしれない。結果的には、住友がすべて泥をかぶる不明朗な処理をしたため、不良債権の最終処理までにはさらに10年かかったのだ。

しかし国重も明らかにしていないのは、事件のもっともディープな部分である磯田の娘(黒川園子)と伊藤の関係だ。園子は山口組の構成員と肉体関係があり、伊藤がその写真を取り返して磯田に取り入ったともいわれた。磯田が1990年10月に突然、辞任したのはその「秘密」を明かす国重の手紙を受け取った直後だった。

失われたイトマンの不良債権5000億円のほとんどはゆくえがわからない。そのほとんどは山口組に食われたといわれるが、住銀が私的整理したので真相はわからない。一連の事件の背後にいた佐藤茂は稲川会の企業舎弟といわれ、イトマン事件は東西暴力団の「代理戦争」だったという見方もあるが、今となっては真相は闇の中である。
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