Law/Politics

成熟できない民主党

今週のSAPIOに出ている私の「ワーキング・プアを『ただのプア』に転落させる『派遣禁止法案』の大欺瞞」という記事について誤解があるようだが、私は「反民主党キャンペーン」に協力したわけではない。むしろ民主党政権が長続きするために、安易なポピュリズムはやめるべきだと言っているのだ。

内容も、当ブログや「アゴラ」で書いてきたことだ。特に強調したのは、派遣規制が労使の結託によって非正社員を労働市場から排除する身分差別だということである。それは当の派遣労働者の組合である人材サービスゼネラルユニオンが派遣規制に反対していることでもわかる:
このところ格差社会を論じる際に、間接雇用である派遣がその元凶であるという意見がたびたび出てきます。私たちは、マスコミや一部の労働界、政党から出されている、派遣イコール「ワーキング・プア」、派遣イコール「不本意な働き方」という見方には強く違和感を覚えます。

組合員の話を聞き、さらに厚生労働省の調査結果をみると、こうした見方が一方的であることが浮かび上がってきます。 間接雇用であるがために「不安定である」、「かわいそう」、「ひどい働き方だ」などといわれ、信念・プライドをもって派遣労働者として働く仲間は傷ついています。職業選択の自由の下、間接雇用も直接雇用も同等に「労働」であることの評価がされるべきです。
福島みずほ氏は、法案発表の記者会見で「すべての労働者を正社員にさせる」と息巻いていたが、彼女の望むように「いったん雇った労働者は絶対に解雇してはならない」という法律をつくったら、パートもアルバイトもすべて失業し、日本の失業率は大恐慌なみの25%ぐらいになるだろう。さすがに菅直人氏は「政権を取っても同じ法案を出すのか」という質問に答を濁していた。どうせ社民党との選挙協力の方便だから、総選挙で民主党が単独過半数をとったら反故にするのだろう。

このように選挙のときだけ、お涙ちょうだいのリップサービスをするのは、昔ながらの万年野党だ。こういう無原則な機会主義が国民の信用をなくして政治の混乱が続いてきたのが「政界の失われた16年」だということは、鳩山氏も岡田氏も身にしみて知っているだろう。同じSAPIOで土居丈朗氏も書いているように、民主党の掲げる子供手当などの「17兆円の抜き打ち増税」も実現可能な政策ではなく、自民党に矛盾を攻撃されたら崩壊する。必要なのはまずマニフェストを見直し、実行できる約束だけをすることだ。

政治案件

日本郵政の障害者特例を悪用した事件は、厚生労働省の局長が逮捕される異例の事態に発展した。この事実関係には疑問も多いのでコメントは控えるが、「政治案件」という言葉にはピンと来た。私も似たような事件に巻き込まれた経験があるからだ。これについては当時、朝日新聞(2004/1/24)が社会面トップで報じた。
経済産業研究所(岡松壯三郎理事長)が、個人情報保護法案に反対するアピールの賛同者を募ったとして、幹部研究員を懲戒処分(戒告)したことがわかった。同省から「処分方針」の報告を求められた同研究所が新たに明文規定を作り、さかのぼって適用、処分した。処分を受けたのは池田信夫・上席研究員(50)。処分は昨年6月にあり、理事長や所長も管理責任を問われて訓告、副所長も厳重注意とされた。

同省や研究所によると、池田研究員は昨年4月初め、同研究所の研究員のほか政府関係者や大学教員、メディア関係者20人が参加する「インターネットを規制する個人情報保護法案に反対する」との内容の「緊急アピール」を掲載。所長やほかの研究員数人も賛同者になったが、「執筆者個人の責任で発表し、研究所としての見解を示すものではない」とただし書きがあった。

ところが経産省の大臣官房は研究所に「是正措置や関係者の処分方針」の報告を求め、事実上処分を促す文書を出した。同省や研究所によるとこうした文書は異例という。池田研究員は「最初の段階で、これは署名運動ではないと副所長に説明し、了解も得ていた。明文規定を作った後にさかのぼって処分したのは法治主義の原則に反する」と反論している。(強調は引用者)
この「異例の文書」を出したのが北畑隆生官房長(のちの事務次官)だった。この内部規定にも根拠のない強権発動に当時の研究員は全員反対し、数ヶ月にわたって本省と研究所が対立した。所長も研究部長も私を守ったが、岡松理事長(天下り)は私に「始末書」を書くよう強硬に求めた。この背景についても朝日新聞が書いている:
個人情報保護法案に反対する池田氏の動きについては国会の特別委員会で取り上げられ、細田博之IT担当相[現・自民党幹事長]が経産省に事実関係を問い合わせた。このあと処分を促す文書が出された。

池田氏は処分後、知人のキャリア官僚から「よくあることだ」と慰められた。官僚の世界では、政治家などのメンツを立てるために処分を「利用」すると知人から解説され、「自分も経産省の身内としてこの枠組に組み込まれたのか」と池田氏は感じた。
「事実関係を問い合わせる」というのは、「池田という奴を処分しろ」という命令の婉曲話法で、こういう意をくんで迅速に対応するのが「能吏」の条件だ。官僚にとっては、政治家は形式的には尊重するが、実態は法案を通す上での障害物にすぎないので、それを取り除くためには障害者団体の偽造ぐらい大した話ではない。今回それが結果として刑事事件になったのは不運だったが、この程度の話は霞ヶ関では日常茶飯事だ。もちろん違法行為を擁護する気はないが、本質的な問題は「政治案件」と名がつけば無理の通る霞ヶ関の体質にある。

解雇規制の耐えられない曖昧さ

「解雇自由」の定義をめぐってつまらない議論が繰り返されるのもうざいので、ここでまとめて書いておこう。そもそも解雇自由という言葉が多義的であり、民法では解雇自由の原則を規定している。この定義はビジネスの現場ではもっと多様で、たとえば人事コンサルタントの鈴木雅一氏は次のように書いている:
解雇問題にあっては、日本と好対照に位置づけられるのがアメリカである。Employment at will、これは日本では“随意雇用・解雇”と訳す。Employment at willとは、会社も社員も、雇用契約の当事者は、いずれかの自由意志で、理由のあるなしにかかわらず、雇用関係を解消できるということを意味する。

ヨーロッパ諸国の事例は若干事情が異なるように思える。概して言えば、アメリカほど解雇は簡単ではないと言えよう。しかしながら、Employment at willの根底にある解雇自由については、原則としては受け入れているように思える。その上で、能力不足などを原因とする解雇と、リストラなどの場合の解雇を分けて会社のとるべき対応方法を規定したり、勤続年数に応じて解雇予告期間を設定することで結果として解雇における金銭解決策に導く工夫をしたりしている。

アメリカの事例に戻れば、Employment at willとは言え、公序良俗に反する差別的な理由による解雇は不当であるとされている。加えて、近年、雇用関係における特殊性、すなわち、交渉力や経済力の実質的な格差から、会社に比べて社員が弱い立場にあるということを考慮して、解雇を論ずる判例も見られるようになってきた。(強調は引用者)
つまり解雇自由=Employment at willという原則は主要国では変わらず、それが労働者に不利にならないように条件をつける構成になっていることも共通なのだ。ところが日本では、この原則と例外の関係が法的に明確でなく、解雇権濫用法理などによって事実上すべての(4要件を満たさない)整理解雇が違法ということになっている。これが経営者を萎縮させて正社員の雇用を減らし、非正規雇用を増やしているのである。

私が書いているのは、今のような曖昧な解雇規制を改め、労基法に解雇自由の原則を明記し、どういう場合には解雇を禁止するか、あるいは解雇の際に労働者にどういう配慮をすべきか、といった規定を明文で設けるべきだ、という世界の常識にそった話だ。この点は2003年の労基法改正のときも議論され、労組の反対でつぶされたが、OECDやNIRAの報告書を読めばわかるように、こういう考え方が経済学者のコンセンサスだ。

ただ経済学者の議論は実装段階を考えていないので、こういうpolitically incorrectな改革を政治的アジェンダとして設定するにはどうすればいいか、あるいはどう法制化するかといった点については、政治家や官僚との議論も必要だと思う。しかし「霞ヶ関の辞書」だけを絶対的真理と思い込み、自分と違う考え方を頭から「無知蒙昧」などと罵倒してかかるような党派的態度からは、建設的な議論は生まれない。

民主党のとるべき政策

自民党は、ますます政権末期の様相を呈してきた。民主党が相対第一党になることが確実になった今、その支離滅裂なマニフェストをまじめに批判するときが来たようだ。WSJでRichard Katzはこう書いている:
A major cause of anemic consumer spending is the drop in real wages by 7% from 2001 through 2008. A major factor in the wage slide is the rise of "irregular workers" who now comprise a third of the workforce and are typically paid lower hourly wages even when they do the same job as regular workers. Various labor deregulations advertised as overcoming Japan's notorious labor market rigidity have instead led to wage austerity.

The DPJ remedy is to ban wage discrimination between regular and irregular workers and to institute a 30% increase in Japan's low minimum wage over the next three years. These approaches are contradictory because the latter could end up reinforcing rigidities that hurt both GDP growth and new hiring.

And that requires structural reforms that unleash creative destruction, such as greater labor mobility, more competition in private industry, greater opportunities for entrepreneurs, and more efficient financial markets
今までEconomistやFTの意見でも紹介してきたように、民主党がとるべき経済政策はほとんど自明である。Katzが心配しているのは、その当たり前の政策を、社会主義者の残党の多い民主党が実行できるのかどうかということだ。

成熟できない国と成熟しすぎた国

韓国の盧武鉉・前大統領が自殺した。韓国の大統領が引退後、訴追されることは珍しくもないが、自殺というのは初めてだ。死者に鞭打つようで恐縮だが、韓国という国はいつまでたっても成熟できないのだなという感を強くする。

日本と韓国は、ほとんど管理された実験のような「双子国家」である。遺伝的にはほとんど同じでありながら、その民族性は対照的だ。日本人は感情を表に出さず、自己主張しないが、韓国人は感情の起伏が激しく、敵を徹底的に攻撃する。明治以降、日本は非西欧圏ではほとんど唯一、自力で近代化を果たしたが、李氏朝鮮は近隣各国の侵略を受け、最終的には日本の植民地になった。

その原因は、李朝の「儒教原理主義」ともいうべき統治機構が500年以上にわたって続いたことだとされる。儒教では皇帝と官僚機構を頂点とする階層秩序を想定しているが、中国は大きすぎるため、それほど厳密な階層構造はできなかった。これに対して李朝は極端な中央集権制で、政治・経済を支配する両班とよばれる特権階級が派閥抗争を繰り返したため、李朝の末期には国家の歳入が約700万円(日本の1/40)、学校も道路もほとんどなく、人口は100年で7%減るという現在の北朝鮮のような状況だった。

この原因は、生態史観によって説明できる。日本と西欧はアジアの中心部の乾燥地帯をはさんで対称な位置にあり、遊牧民による征服の脅威をあまり受けなかったため、文明が自発的に遷移した。特に農村や都市などのコミュニティが発達し、中間集団による分権的ガバナンスが機能したため、民主主義と市場経済が定着した。これに対して朝鮮は中国の直接的な支配下にあったため、つねにその脅威にさらされ、国家として成熟できなかった。戦後は南北の分割という不幸に見舞われて、軍人による統治が終わったのは1992年になってからである。

盧武鉉は、こうした未熟さを象徴する人物だった。「eポリティックス」で生まれたことになっているが、その政治手法は旧態依然の左翼的ポピュリズム。軍事政権の「過去を清算」する政策が行き詰まると、日本を仮想敵にして「慰安婦」などのデマゴギーを蒸し返し、軍事政権のように排外主義を政治的に利用した。その裏でも、軍事政権と同じ賄賂政治をやっていたわけだ。インターネットはしょせん道具であり、未熟な政治を電子化しても、その中身が変わるわけではない。

これに比べると日本は、1980年代に「戦後レジーム」が成熟してしまい、何もすることがなくなっってから20年以上が過ぎた。こっちは中間集団の自律性が高すぎるため、政治家はその利害調整しかできない。もう完全に手詰まりになったシステムをいつまでも延命している日本と、政治も経済もころころ変わる韓国は対照的だ。日本型システムは、必要な改革を圧殺するfalse negativeを生みやすいが、韓国型システムは朝令暮改を乱発するfalse positiveを生みやすい。中庸というのはないものだろうか・・・

日本にも香港を

Economist's View経由で知ったが、Paul Romerが「途上国に香港をつくれ」という提案をしているそうだ。

このヒントは中国である。彼らの改革開放政策には、香港の成功が大きな影響を与えている。それは政府の規制が少ないほど経済が発展するという見本を身近に見せているからだ。日本では「特区」の話が出ては消えるが、ほとんど実施に移されていない。香港のような成功モデルがないので、官僚が「規制をなくしたら大変なことになる」とネガティブな話だけを流布するからだ。

アメリカでは、インディアン保護区は主権国家なのでFCCとは別の電波政策をとっており、UWBなどの実験が行なわれている。民主党のマニフェストでは「地方主権」をうたっているが、本気でやるなら(道州などの)地方政府に国家主権を与え、すべての規制を独自に決める権限を与えてはどうだろうか。たとえば不況にあえいでいる北海道が為替レートを独自に設定すれば、たぶん円の半分ぐらいになり、解雇規制を撤廃して実効賃金を下げれば、中国と競争して工場を誘致できるかもしれない。

保守主義の危機

Becker-Posner blogで、保守主義をめぐる議論が盛り上がっている。先週の記事で、ベッカーとポズナーが「保守主義は危機的状況にある」として、ブッシュ政権以来の保守主義の混乱を批判したのに対して、山のようなコメントが寄せられた。日本では「経済危機で新自由主義は破綻した」といった話が流行しているが、彼らの批判はもちろん、そういう通俗的な議論ではない。

保守主義の基礎にある理念は、アメリカ建国以来の国家への懐疑であり、それは18世紀のヒュームやアダム・スミスから継承された古典的自由主義と一体だ。しかしブッシュ政権のイラク戦争などの対外拡張主義や、同性婚の禁止などのキリスト教原理主義は、保守主義の伝統に反する介入主義である。このように共和党が、建国以来の伝統をを逸脱してポピュリズムに走ったことが、現在の危機的状況をもたらした――というのがベッカーの批判だ。

これに対してイースタリーは、「ベッカーは自由主義と保守主義を混同しているのではないか」と批判した。ハイエクは「私は保守主義者ではない」として、貴族の既得権を擁護するイギリスの保守党(Tory)を批判し、自分は"old Whig"だとのべた。Whigというのは自由党で、保守主義の元祖として知られるエドマンド・バークも自由党の政治家だったし、ケインズも自由党員だった。このようにアメリカの保守主義は、建国の理念である自由主義を保守するもので、イギリスの保守党とは違うが、両者に共通するのは国家の介入から個人の自由を守る懐疑主義である。

しかしアゴラにも書いたことだが、大きな内戦や植民地支配を経験しなかった日本では、権力としての国家を疑う意識がなく、国民を守る家父長として国家をイメージする傾向が強い。特に山口二郎氏五十嵐仁氏に代表される万年野党は、政府を「大資本に奉仕する悪い奴」として批判するくせに、弱者を救済するときは同じ政府を「慈愛に満ちた保護者」として描く。鳩山由紀夫氏の「友愛」が、そういう家父長的な国家をめざすものだとすれば、霞ヶ関の改革は闘わずして敗れたも同然である。

霞ヶ関の権威と権力

民主党の鳩山新代表の公約をみて驚いた。最初にかかげられている最重点項目は「霞が関から市民への大政奉還」である。もののたとえだとしても、21世紀の政策にこういう儒教思想が出てくるのは、彼の官僚機構についての認識の甘さをうかがわせる。

大政奉還という言葉は、倒幕派の「王政復古」の思想に対応する。儒教では「王道」に対して、武力で政権をとる「覇道」を邪道と考え、特に日本では万世一系の天皇が征夷大将軍を任命したと考える。いわば天皇がプリンシパルで幕府はエージェントだから、後者が前者の意に沿わない場合は解任するのは当然、という発想だ。ここで「奉還」されるのは天皇から委任された権力であって、鳩山氏が想定している国民主権ではない。

これは単なるワーディングの問題ではない。このようにして奉還された天皇の大権が、明治以降の官僚機構のよりどころだったからだ。鳩山氏がこのような日本の官僚機構の儒教的な性格に無自覚であるかぎり、霞ヶ関を本質的に変えることはできない。坂本多加雄も指摘したように、日本の官僚は西洋的なテクノクラートではなく、科挙以来の伝統を受け継ぐ儒教的な知識人であり、そこに彼らの権威の源泉があるからだ。

科挙についての解説書を読むと印象的なのは、テクノクラートとしての技術を問う科目がまったくないことだ。科挙の問題は時代によって変化したが、四書五経を暗記して解釈することと、詩を書くことという基本は変わらなかった。これは官僚としての実務能力を問う役には立たないが、彼がすぐれた記憶力・表現力をもつ文人で、国家の命令に忠実に従うことはわかる。

つまり科挙は、特定の専門的な成果(performance)を問う試験ではなく、任意の問題を処理する能力(competence)を問うシグナリングなのだ。この場合、問題の内容には意味がなく、それを解くコストが小さいことをシグナルできればよい。この伝統は日本の大学入試や就職試験にも受け継がれ、企業は学生がどんな専門知識をもっているかは意に介さない。偏差値の高い学生は、つまらない仕事でもこなせる順応性が高いことをシグナルしているのである。

いいかえれば儒教的な官僚は、ウェーバー的な専門人ではなく、「君子は器ならず」といわれたように、特定の器にはまらないで法律から文学まで幅広い教養をそなえたジェネラリストであり、最高の知識人なのだ。彼らの力の源泉は、許認可権などの法的な権力だけではなく、それが知的な権威と統合されていることにある。したがって優秀な学生は官僚になり、それによって官僚の権威が高まる・・・という循環によって、彼らの実質的な権威は政治家よりはるかに大きい。

このように霞ヶ関は、三権分立といった西洋的な国家機構とはまったく異なる独特な構造をもっている。それは法律の建て前では、立法府に従属する行政府でしかないが、実態は政策立案や立法の機能を兼ね備えた非公式の最高権力である。公務員制度改革で問題になった職階法にみられるように、法律が成立してもそれを50年以上にわたって無視し、明治以来の「高等官/判任官」のシステムを守ってきた。

しかし、かつては権威と権力が一致して安定していた霞ヶ関の力は、日本経済が成熟して彼らの「開発主義」的な指導を必要としなくなると衰えてきた。かつては天下りを求めた民間企業も拒否するようになり、「君子」としての生活が保障されなくなると、優秀な学生が公務員をきらう・・・という悪循環が始まり、権威と権力のmisalignmentが起こり始めている。霞ヶ関で最近よく聞くのは、「このごろの新人は文章が書けない」という嘆きだ。これは過渡的には危険だが、最終的には権力は権威(の低下)に従うだろう。

ただ100年以上にわたって蓄積されてきた霞ヶ関の「暗黙知」の集積は莫大なもので、政治家がそれに対抗することは容易ではない。GHQでさえ手をつけられなかった組織を、「大政奉還」なんてとぼけたことをいっている民主党が壊せるとは思えない。「官治国家」を倒す闘いは、大政奉還のような甘いものではなく、儒教的な意味での「革命」に近いからだ。

解雇権濫用と整理解雇

まずきのうの記事で指摘した事実誤認について、さすがの小倉弁護士も撤回したことは諒としたい。彼にも、これぐらいの理性は残っていたということだろう。その次の記事については、私は労働法の専門家ではないので、専門家の見解を引用しておこう:
1975年には、日本食塩製造事件に関する最高裁判決が出されている。この「使用者の解雇権の行使も、それが客観的に合理的な理由を欠き社会通念上相当として是認することができない場合には、権利の濫用として無効になる」とする判例法理は、解雇制限にかかわる基本法理として広く参照されることになった。[・・・]

整理解雇に関する代表的な初期判例として引かれる1979年の東洋酸素事件に関する東京高裁判決は、特定の事業部門の閉鎖に伴う整理解雇が就業規則にいう「やむを得ない事業の都合による」ものといえるためには、三要件[略]を充足することが必要であり、かつそれをもって足りるという整理を与え、その後の整理解雇法理にとって重要な礎石となった。(『日本的雇用システム』pp.39-40)
このように1975年の最高裁判例が「解雇権濫用法理」の一般論として引用されるのに対して、東洋酸素事件の高裁判決は「整理解雇の4要件」として整理され、両者は別個の法理として扱われるのが通例だ。ちなみに前者はその後、労働契約法16条として立法化されたが、後者は立法化されていない。

私の事件における公文の「通告」のような明白な契約違反は、労働法を持ち出さなくても、民法で簡単に違法だと判断できるが、整理解雇は一般にそのような明白な契約違反を含んでいない。したがって、それが「客観的に合理的な理由を欠く」かどうかの基準として整理解雇の4要件が参照される。大竹文雄氏柳川範之氏のいう解雇規制も整理解雇をさしており、一般的な不当解雇をすべて自由にせよというものではない。私の過去の記事も同じである。

両者を混同して、私が「正当な理由があろうがなかろうが、およそ解雇は自由でなければならないと主張している」などとばかげた主張を行なうのは、小倉弁護士と天下り学者に共通の特徴である。このような虚偽にもとづいて、まともな議論をすることはできない。彼らは、まず私がそういう主張をしたことを具体的な引用で示してみよ。

何でもあり

共産党も警告するように、「100年に1度の経済危機」という思考停止をまねきやすい言葉に便乗して、「何でもあり」の異常な財政・金融政策が続けられている。先日、ある自民党の族議員が「今までずっと当初予算で要求して認められなかった庁舎の改築費が、今度の補正では3年分前倒しで認められた。財務省から『何かありませんか』と御用聞きに来た」と驚いていた。竹中平蔵氏も、次のように指摘している:
本予算にではなく補正予算として計上されたことについては、さらに深刻な問題が伴う。例えば農水省の場合、今回の補正予算で約1兆円の金額が付けられているが、そもそも農水省の年間予算(非公共事業)は1・5兆円程度である。この1・5兆円の予算を獲得するために1年かけて政策論議をし、予算査定が行われるのだ。しかし今回の場合のように、補正予算ではわずか2週間で枠組みが決められる。
私も補正の要求作成を手伝ったことがある。課長補佐が「来週までにITがらみで500億円の使い道を考えてください」といってきたので、思いつきである無線技術の「電波特区」の話をすると、その日のうちに「200億要求するのでペーパーを書いてください」という電話が来た。その新技術の専門家を呼んで打ち合わせをし、徹夜で提案を書く――という突貫工事だった。幸か不幸か、この予算は通らなかったが、一度も見たことのない無線技術に200億円出す理由を審議官に説明したときは、われながら恐いと思った。

ある官僚によれば「補正予算というのは、昔は非常災害などのとき、文字どおり当初予算を補正するもので、何十兆円も組むものではなかった。それが小渕政権のとき、『金融恐慌を防ぐ』という大義名分でタガがはずれ、その後はひたすら予算規模を競うようになってしまった。今回は財務省もフリーパス状態。そうしないと15兆円は埋まらない」。

しかし小渕政権の歴史的なバラマキ財政で、景気は回復しなかった。財政赤字だけがOECD諸国で最大にふくらみ、それに危機感を抱いた国民の支持を受けて小泉政権が誕生した。日本経済が不況から脱却したのは、小泉内閣の緊縮財政が始まったあとの2003年以降だったのだ。赤字財政で成長率が回復するというのは、理論的にも実証的にも裏づけられない迷信である。Akerlof-Shillerも指摘するように、大事なのは経済が立ち直るという信頼であり、この点からみると日本経済が回復する展望はない。


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