Economics

「成長戦略」についての混乱

先日、ある記者に「自民党が急に『成長戦略』をいいはじめたのは池田さんの影響じゃないんですか?」ときかれた。たしかに7月28日の記事で「民主党は分配の話ばかりで、その原資をどうやって大きくするのかという話がない」と指摘し、「自民党が成長戦略を打ち出せば、勝ち目もあるかもしれない」と書いたら、その3日後に自民党が「成長戦略」をマニフェストのトップに掲げ、麻生首相が同じようなことをいいだしたのには驚いた。

まぁ偶然だろうが、当ブログには衆議院からのアクセスも多い。議員秘書のみなさんは真剣に勉強しているので、少し教科書的なおさらいをしておくと、成長率を高める政策として、次の3つが考えられる:
  1. 財政政策:政府支出の追加によってGDPを増やす
  2. ターゲティング政策:特定の産業を政府が助成する
  3. 規制改革:競争を促進して市場を拡大する
このうち1は短期の景気対策で、確実にGDPは上がるが効果は一時的なので、成長戦略とはいわない。民主党が後出しじゃんけんで「成長戦略」に含めた子供手当や高速無料化などはすべて1だが、これはゼロサムの所得移転で、長期の成長率を引き上げる効果はない。この点で、民主党のマニフェストは混乱している。

同じ財政支出でも、2のような産業政策は企業収益を高めて潜在成長率(民間が自律的に維持できる成長率)を高める可能性がある。オバマ政権の「グリーン・ニューディール」や、経産省の進めている「新経済成長戦略」はこれだ。自民党の掲げる「低炭素革命」などのキャッチフレーズも、ここから借りてきたものだろう。この点で成長戦略の理解については、経産省の知恵を借りた自民党に軍配が上がる。

ただターゲティング政策が有効な分野は限られる。日本のように成熟した経済では、民間にできず政府にだけできる投資というのは、ほとんど残っていない。考えられるのは、石油の採掘や交通インフラ整備のような超長期の投資か、環境のような政策目的のある分野だろう。この意味で、オバマ政権をまねた低炭素という自民党のスローガンは、的はずれではない(私は無意味だと思うが)。

しかしもっとも重要で金もかからないのは、3である。特に労働生産性の低いサービス業の規制を撤廃し、新規参入を促進することが重要だ。その問題業種の一つが教育サービスなので、きょう麻生氏が大学の多い八王子で第一声を上げたのが、「成長戦略を意識した」という周辺の解説が本当だとすれば立派なものだ。また民主党の検討している周波数オークションは、財源を生み出す成長戦略である。総務省も「政権党がやると決めれば反対はしない」とのことで、省内で勉強会を始めたそうだ。

成長戦略で何よりも重要なのは、人材である。硬直化した労働市場で優秀な人材が不況業種にロックインされていることが日本の成長率を下げている最大の要因なので、労働問題も派遣労働の禁止といった後ろ向きの話ではなく、人材を成長分野に移転する成長戦略として考えてはどうだろうか。人材活用のための再教育機関として大学を位置づければ、教育改革ともリンクする。成長戦略に必要なのは財源ではなく、知恵と決断力である。

年功序列は戦時経済で生まれた

先日の年功序列についての記事が不正確だったので、訂正しておく(テクニカル)。

年功序列の起源が明治期の官僚制にあるというのは誤りで、戦前それに近い序列があったのは大蔵省だけだという。たしかに秦郁彦氏の労作『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』によれば、両省の事務次官の入省年次は次のようになっている:



就任順12345678910111213141516
大蔵省1896189518951896189719021903190419051907190919121910191719151917
内務省1895189518981897190418971902189819031897189519071909190919131912

大蔵省も厳密な年次順にはなっていないが、内務省はバラバラである。もちろん大きくいえば次第に年次が若くなっているが、これはどんな職場でもあることで、少なくとも年次の順に次官に就任するという現在のような慣行は戦前はなかったようだ。

「年功」という言葉を賃金制度について初めて使ったのは、氏原正治郎と藤田若雄の1951年の調査である。これは京浜工業地帯の大工場についてのもので、おおむね入社年次によって昇進と賃金が決まっていた。これは職工の「身分」に対応しており、たとえば二等工手は三等工手として3年以上実績のある者から選抜する、といった形で昇進したためである。氏原・藤田はこの慣行の起源を「親方制」の徒弟制度に求めている。経験年数による序列は1890年代から記録に残っているが、これは結果としての年功制であり、年次による管理が行なわれていたわけではない。

野村正實『日本的雇用慣行』によれば、厳密な年功序列が民間で初めて見られるのは、戦時経済下だという。このころ、たとえば三菱重工の工員は1932年に約1万人だったのが1942年には16万人、1944年には36万人と爆発的に増えたため、人事査定をひとりひとり行なうことが不可能になり、機械的に年次で行なうようになったものだ。

こうした人事制度が戦後も継承され、特に官庁では外務省を除くすべての官庁で厳密な年次による昇進管理が行なわれるようになった。しかし民間ではそれほど厳密ではなく、今でも中小企業には、年功制はほとんどない。ただ高度成長期には、企業が成長し、社員の年齢構成もピラミッド型になっていたので、大企業では自然に年功序列が形成されていったと思われる。

年功序列は、職工が時間をかけて技能を蓄積してゆく時代には適していたが、工程が機械化されると、このような熟練工は必要なくなった。それが戦後も維持されてきたのは、結果として社員に「会社への貯金」を強要して囲い込むインセンティブ・システムとして機能したためだろう。だから年功序列は長期雇用を支えているが、後者にとって必須ではない。能力主義にもとづく長期雇用も可能だし、競争の激しい製造業では年功制は崩れ始めている。公務員制度改革でも「年功序列の打破」がうたわれている。これは日本的雇用慣行のもっとも弱い環といえよう。

政界も戦後しばらくは実力主義だったが、自民党の長期政権が続いて緊張がゆるむと当選回数による序列ができた。しかし「舛添総裁」が待望されているのを見ると、政界でも年功序列が崩れ始めているようだ。日本が変わるためにまず必要なのは、この不合理で無用な慣行を明示的に廃止することだ。特に民主党が政権をとって「天下り禁止」を行なう場合、現在のような年次による人事管理をしていては、50代の窓際族の処理で行き詰まることは必至だ。「官民人材交流センター」をやめるなら、年功序列を禁止する国家公務員法の改正を行なってはどうだろうか。

追記:コメントで指摘されたが、軍が厳格な年功序列になっていたことが影響したのではないかとも考えられる。しかし軍の昇進が士官学校の成績(ハンモックナンバー)と年次で決まるのは、世界的にみられる現象で、日本だけでそれが民間にも広がったとすれば不可解だ。いずれにせよ年功序列は、中央集権や間接金融体制と同様、戦時の「総動員体制」のもとで生まれたということだろう。

日本のバランスを回復する

今週のEconomist誌は、日本の過大な経常黒字=過少消費が世界経済と日本自身にとって有害だと論じ、規制撤廃によってサービス業の労働生産性を上げて内需を拡大すべきだと提言している。
日本の経常収支の黒字は、2007年にGDPの4.8%と過去最高を記録した。これは日本の輸出が世界の脅威となった80年代を上回る。当時、前川リポートは「内需拡大」を呼びかけたが、その後も輸出産業に依存する体質は変わらなかった。90年代以降は、国内産業の業績悪化によって輸出への依存度はむしろ高まり、危機前には工業生産の1/3が輸出産業によるものだった。

国内消費が増えない要因は、労働分配率の低下や高齢化、大企業と中小企業の二重構造、非正規労働者の増加による平均賃金の低下などだが、好不況にかかわらず消費が伸びないのには文化的要因も考えられる。日本人は勤勉を重んじて長時間労働に耐え、余暇を楽しむすべをあまり知らず、借金で分不相応な生活をすることを好まない。

国民に代わって政府が消費する景気対策は、悪化している財政を考えると好ましくない。今は国債が順調に消化されているが、日本政府の返済能力に不安が出てくると危険だ、とIMFは警告している。根本的な対策は、サービス業の効率を上げて消費を拡大することだ。日本のサービス業の労働生産性が低い原因は、規制に守られて競争が阻害されていることだ、とOECDは指摘している。

日本企業のR&D投資は高いが、サービス業のR&D比率はアメリカの1/4しかない。通信サービスや旅行代理店など成長の見込める分野も、規制が複雑すぎて外資が入れない。外資が参入した部門の生産性上昇率は平均の1.8倍なので、対内直接投資を拡大することが有効な対策だ。

今後10年で人口が9%も減少する経済においてもっとも緊急性の高い問題は、「子作り」を奨励することではなく労働生産性を上げることだ。そのためにはリストラによって労働移動を促進するしかない。それは古い企業で雇用喪失をまねくだろうが、サービス業の効率を上げて消費が増えれば、最終的には雇用は増える。重要なのは、「安心・安全」などの理由で過剰に規制されているサービス業を政府の介入から解放し、新規参入を促進することだ。

しかし今度の総選挙では、この日本経済のバランスを回復するというもっとも重要な問題が、争点にさえなっていない。逆に製造業の派遣労働を禁止するなど、規制を強化する政策が提案されている。こういう愚かな政策は不況を悪化させて消費者の不安を増し、消費を減らして問題をさらに悪化させるだろう。
これがOECDやIMFやEconomistに代表される世界の常識である。それが誤った「市場原理主義」だというなら、自民党や民主党はそれよりも合理的な成長戦略を提案すべきだ。こうした常識をふまえることなく、不況の責任を「小泉・竹中改革」に押しつけるだけでは、長期停滞はますます深刻化するだろう。

戦時経済の再来?

岩本康志氏のブログより:
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軍事費抑制論者であった高橋是清が1936年に暗殺されて,軍部の意向が強く働くようになり,債務比率は膨張を続け,1944年度末に約200%のピークに達する。戦後のインフレによって国債は事実上償還され,債務比率は急速に低下する。石油ショック以降は再び上昇に転じ,最近の動きは第2次世界大戦期の動きを彷彿させる。債務比率の動きだけを見れば,日本は石油ショック以降,度重なり戦争をしているみたいだ。やや煽情的な言い回しとなるが,私は,近年の債務残高の動きを説明するときに「日本は景気を相手に戦争を始めた」という表現を使うことがある。

経済の役に立つ経済学がほしい

田中秀臣氏によれば、「白川総裁、上海で池田信夫と化す」とのことだ。
1990年代後半以降、日本の政策当局に対し、国内外のエコノミストや国際機関から様々な政策提言がなされたことは記憶に新しいと思います。[・・・]中でも、最も有名な提言の1つは、「無責任な政策にクレディブルにコミットすべし」というものです。興味深いことに、今回の危機では、急速な景気の落ち込みにもかかわらず、エコノミスト達からは、同様の大胆な政策提案は行われていませんし、そうした急進的な措置も実施されていません。
日銀総裁が私と同じ意見だとすれば名誉なことだが、これは事実を語っているだけだ。かつてリフレ派が日銀を攻撃して「世界標準の政策」だとか称していた人為的インフレ政策を採用した中央銀行は、どこにも存在しない。その教祖バーナンキは、「インフレを阻止するためには金融引き締めが必要になる」とのべている。クルーグマンも撤回した(なぜか日本にだけは人為的インフレを迫っているが、日銀は英語が読めないとでも思っているのだろうか)。マンキューも一時、人為的インフレを提案したが、私がEメールで問い合わせたところ、クルーグマンの1998年の論文も読んでいなかった。その後は、彼もこの種の議論はやめた。

こういう不毛な議論がいつまでも続くのは、日本の経済学界がガラパゴス化している証拠だが、マクロ経済学にも問題がある。Economist誌も批判するように、現在のマクロ経済学では金融危機は起こりえないので、それについて理論的には何もいえない。無理やり問題をマクロ経済学の中だけで理解すると、人為的インフレのようなナンセンスな政策しか出てこない。アカロフ=シラーも指摘するように、危機管理でもっとも重要なのは金融システムに対する信頼であり、金利や通貨供給量などのマクロ変数はその補助的な手段にすぎない。ところが、どうやって信頼を回復するかという中央銀行にとってもっとも切実な問題に答える理論が存在しないのだ。

私は経済学は物理学ではなく医学に学ぶべきだと思うが、今のマクロ経済学は、健康診断は精密にできるが、病気になったら診断も治療もできない医学のようなものだ。医学にとって「本番」は危機管理であり、体温や血圧を予測することではない。手元に血圧計しかないからといって、ガン患者の血圧だけを見て「血圧降下剤をもっと投与しろ」という医者は失格である。日本の政治家が経済学を無視した政策ばかり出してくるのは、彼らがそれを理解していないことも事実だが、こうした経済学の実態を経験的に知っているからだ。医学を無視した民間治療は役に立たないが、経済学はもともと民間療法みたいなものなので、それを無視しても大した実害はないと思われている。

こういう批判は、私の学生のころから繰り返され、経済学もそれなりに努力してきたが、現実との距離は縮まっていない。最大の問題は、経済学者のインセンティブが歪んでいることだ。彼らにとって重要なのは学界で出世することで、そのためには国際学会誌に論文を載せることが重要なので、その基準にあわない研究はしない。このように形だけは自然科学に似せているが、実証データで反証された理論は棄却するという科学の原則は無視して、「美学的」な基準でモデルを選ぶ。経済学者の役に立つ経済学ではなく、経済の役に立つ経済学が必要である。

「内需拡大」についての誤解

池尾・池田本で「外需主導を脱却して内需を拡大する必要がある」と書いたとき、一つ心配があった。これを前川リポートと同一視されると、あのときのように内需拡大が「公共投資の拡大」と誤解されるおそれがあったからだ。その懸念は、残念ながら現実になってしまった。民主党のマニフェストは「成長戦略」についての修正で、
子ども手当、高校無償化、高速道路無料化、暫定税率廃止などの政策により、家計の可処分所得を増やし、消費を拡大します。それによって日本の経済を内需主導型へ転換し、安定した経済成長を実現します。
と書いているが、これは誤りである。このような「内需」の財源はすべて税か国債であり、所得再分配にすぎない。たとえば子供手当をもらう家庭の可処分所得の増加は、配偶者控除や扶養控除を減らされる子供のない家庭の可処分所得の減少で相殺されるので、ネットの消費は増えない。

成長戦略とは、みんなの党だけが正しく認識しているように、「生産要素を成長分野に再配分」することによって経済の効率を高めることだ。これはゼロサムの所得分配とはまったく別の問題であり、民主党のマニフェストはこの基本的な考え方を理解していない。税金のバラマキによる「内需拡大」がいかに悲惨な結果をもたらすか、われわれは90年代に学んだはずだ。

[高校生の経済学] 関税と所得補償

民主党が日米FTAについてマニフェストを修正する方針を決めたことに対して、小沢一郎氏が異議を唱えた。農業所得補償は「農産物の貿易自由化が進んでも、市場価格が生産費を下回る状況なら不足分は支払うという制度。消費者にとってもいいし、生産者も安心して再生産できる」という彼の議論は、経済学的にも正しい。これを簡単な例で考えてみよう。

コメの需要と供給が図のようになっていて、国際価格はP1、生産量はQ1だとしよう。このとき消費者余剰はA+B+b+C、生産者余剰はD+d+E+Fとなる。他方、国内米の価格をPbとし、輸入米に関税をかけて価格をPbに引き上げると、生産量がQ2に減るので消費者余剰はAだけになり、生産者(海外農家)の受け取る価格はPsに下がるので、生産者余剰はFだけになる。B+b+D+dが税収として政府に入るが、C+Eは誰の得にもならない社会的な損失であり、死荷重とよばれる。
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ここで関税を撤廃して価格がP1に下がると、消費者も生産者も利益を得る。しかし国内農家は関税を払っていないので、国内価格Pbでの生産者余剰はB+dである。輸入が自由化されて価格がP1に下がった場合、国内農家が同じ量を生産すると、d-bの損失が発生する。その差額(B+b)を所得補償すれば、国内農家の所得は変わらず、消費者はB+b+Cの大きな利益を得る。アメリカの農家もD+d+Eの利益を得るので、米政府も歓迎するだろう。関税による死荷重がなくなるので、誰もが利益を得られるのだ。

これは高校生でも習うミクロ経済学の練習問題である。小沢氏の主張は、きわめて初等的な経済学で証明できるのだ。彼がFTAで日米の経済関係を緊密化するために農業所得補償を提案したのは、日本の政治家には珍しい戦略的な政策である。それは農業補助金を中間搾取してきた農協を通さないで戸別補償することによって、自民党の最大の集票基盤である農協を破壊するという点でも、自民党を知り尽くした小沢氏らしい。

逆にいうと、ここで民主党がマニフェストを修正したら、鳩山氏や菅氏は高校レベルの経済学も理解できないことをみずから証明することになる。経営工学でスタンフォード大学のPh.Dを取った鳩山氏が、まさかこんな初等的な理論を理解できないはずはあるまい。今度の総選挙では、民主党の戦略とともに、彼らの知能も問われているのである。

追記:誤解を与えないように図を修正したが、結論は同じである。コメントにもあるように、所得補償の額は消費者余剰の増加よりはるかに小さい。

[中級経済学事典] フォーク定理

日本人は戦略的行動が苦手だとよくいわれるが、その原因はゲーム理論でよく知られるフォーク定理で説明できる。これは経済学部の学生なら知っているが、90年代以前に勉強した人には何のことかわからないようなので、簡単に説明しておこう。長文でテクニカルなので、ゲーム理論に興味のない人は読む必要はない。

ゲーム理論というと、囚人のジレンマぐらいは知っている人が多いだろう。これは図のように、2人のプレイヤーが協力(C)するほうが裏切る(D)より望ましいのだが、合理的に行動すると両方とも裏切ることがナッシュ均衡になるゲームだ:


このパラドックスは、1回限りのゲームを考えるかぎり避けることができないが、ゲームが無限回くり返されるとすると、避ける方法がある。プレイヤーAが一方的に裏切ることによって得られる一時的利益は3だが、2回目のゲームからは相手のプレイヤーBも頭にきて裏切ると、両方とも利得は1になるから、プレイヤーAの長期的利益は3+1+1+・・・。これに対して両方が協力することによる長期的利益は2+2+2+・・・となり、3回以上ゲームが続くなら協力した方が得になる。

一般的に書くと、両方とも裏切る場合の利得を1に標準化し、一方的な裏切りによる利得をD、双方の協力による利得をC、ゲームが次回も続く確率(割引因子)をδとして利得の割引現在価値を考える。双方が裏切られた相手には永遠に復讐する戦略(引き金戦略)をとると、裏切りによる長期的利益πDは、無限等比級数の和の公式より、

 πD=D+δ・1+δ2・1+・・・=D+δ/(1-δ)

他方、協力による長期的利益πC

 πC=C+δC+δ2C+・・・=C/(1-δ)

協力が合理的な行動になるのは、πC>πDとなるとき、すなわち

 δ>(D-C)/(D-1)・・・(*)

したがってゲームの続く確率δが高く、協力によって得られるレントCが大きい(または裏切りによって得られる利益Dが小さい)ときは、長期的利益が一時的利益を上回るので、協力することが合理的な行動(サブゲーム完全均衡)になる。これがフォーク定理で、日常語でいうと、
長期的関係を守ることによって期待できる将来の利益が大きく、誰もが長期的関係を守るときは、相手の裏をかく戦略的行動より互いに協力する長期的関係を守るほうが合理的である
ということになる。戦後の日本で系列関係や長期雇用のような長期的関係が支配的だったのは、この意味で合理的な行動として説明できる。高い成長率が長期にわたって続くと誰もが期待しているときは、一時的にもうけて取引を切られるより互いに辛抱して長期的利益(レント)を得たほうが得であり、若いとき「雑巾がけ」して年をとってから高い年功賃金を得ることが合理的だ。

したがって長期的関係が成立する上で重要なのは、長期的利益が一時的利益より大きいことだ。いま日本で起きている変化は、「右肩上がり」の時代が終わって長期的利益が低下する一方、グローバル化によって長期的関係を切ってコストを削減する一時的利益が高まっていることだ。上の(*)式でいうと、Cが下がってDが上がるので(*)が成り立つδの最小値が大きくなるが、長期的関係は減るのでδは下がる。これによって(*)式は成り立ちにくくなり、さらにCが下がる・・・というループに入る。

今の日本では、このようにゲームの規則が長期的関係から戦略的行動に切り替えられる根本的な変化が起こっているのだが、それに気づいている人は少ない。誤って昔のままの利得構造を想定すると、いつまでもゾンビ企業を延命して赤字を垂れ流し、未来のない職場で人生を浪費する結果になる。この変化を「市場原理主義」などと呼んで拒否するのは勝手だが、いくら嫌悪しても、この変化は元に戻すことができない。よくも悪くも、われわれは資本主義という永遠に変化し続けないと維持できないシステムを選んでしまったからだ。

*ちゃんと勉強したい人は、ギボンズの2.3.B参照。

マクロ経済学の「暗黒卿」、反論する

Economist誌に「マクロ経済学の暗黒時代」を作り出した元凶と名指しされたロバート・ルーカスが、これに反論しているが、今ひとつ切れがよくない。効率的市場仮説については、こう弁護する:
Over the years exceptions [of the EMH] and “anomalies” have been discovered (even tiny departures are interesting if you are managing enough money) but for the purposes of macroeconomic analysis and forecasting these departures are too small to matter. The main lesson we should take away from the EMH for policymaking purposes is the futility of trying to deal with crises and recessions by finding central bankers and regulators who can identify and puncture bubbles.
今回の「アノマリー」が"too small to matter"というのはいかがなものか。EMHの結論が「バブルは予知できないので危機管理はできない」ということだとすれば、"valueless, even harmful, mathematical models"と批判されても仕方がないだろう。またDSGEが役に立たない証拠としてEconomistがあげたFRBの2007年のシミュレーションをこう擁護する:
Yet the simulations were not presented as assurance that no crisis would occur, but as a forecast of what could be expected conditional on a crisis not occurring. Until the Lehman failure the recession was pretty typical of the modest downturns of the post-war period.
危機が起こらないという前提でシミュレーションをやったら、起こらないという結論が出るのは当たり前だ。問題は、なぜこんな大きな危機が起こったのかということだが、それはマクロ経済学の外の政治の失敗だとルーカスは考えているようだ。すべての人々が集計的な需要関数を知っていると仮定する彼の理論では、バブルは起こりえないからだ。そこでは市場はつねにクリアされているので、不良資産も流動性不足も起こりえない。したがってその対策も理論的には導けず、危機管理は手さぐりでやるしかない。

つまり均衡理論的なマクロ経済学は、巨大な不均衡の持続している危機では何の役にも立たないのだ(これはルーカスも認めている)。経済が普通に動いているときはマクロ経済学なんか必要ないので、危機のとき役に立たない理論というのはvaluelessである。これはEconomistだけではなくアカロフ=シラーのような彼の先輩も批判していることで、人々が完全な情報をもとに合理的に行動するという事実に反する仮定を修正するしかない。

ルーカスもいうように、こういう欠点は既知の問題で、それよりいい理論があったら出してみろ、ということに尽きる。「アニマル・スピリッツ」にもとづく経済学に、ルーカスの生み出したような膨大な数の論文を生み出す「パズルの生産力」があるかどうかは怪しいが、重要なのは経済学界を維持する力ではなく事実を説明する力である。アカロフたちもいうように「経済理論はアダム・スミスの体系から最低限の逸脱しかしないように導かれるのではなく、実際に起こっていて観察もできる逸脱をもとに構築されるべきだ」。

年功序列の起源

城繁幸氏のブログに、台湾のメディアに日本の年功序列が理解できなかったという話が出ている。年功序列は儒教の「長幼の序」の影響だと思っている人が多いが、違うのだ。儒教の本場である中国にも台湾にも、年功序列はない。中国の科挙は、基本的に試験だけで昇進を決めるので、10年以上受験勉強して中年になってから合格する人も多かったから、年齢で人事を決めることは不可能だった。韓国には日本以上にきびしい年功序列があるらしいが、日本のように入社の年次ではなく年齢による序列だという。

では日本の年功序列は、どこから生まれたのだろうか。笠谷和比古氏によれば、徳川幕府にも年功序列はなかったという。武家の序列の基準は石高だったが、幕末には財政が苦しくなり、管理能力の高い下級武士が昇進するようになった。たとえば勘定奉行として日米修好通商条約を結んだ川路聖謨の家は、「御家人株」を買って武士になった町人だった。勝海舟の家も、無役の最下級武士だった。このような能力主義を可能にしたのは、徳川吉宗のつくった足高(たしだか)制度だった。これは本来の石高とは別に、能力に応じた足高が加算され、形式上の序列(石高)とは別に、実質的な能力主義による俸給制度にするものだった。つまり年功序列は、家柄とは別の経験や功績による序列だったのである。

ところが明治時代に官僚制度ができたとき、高等官/判任官の身分制度や15段階の俸給制度ができ、昇給は年次によるものと(非公式に)定められた。これが戦後も実質的に継承され、Ⅰ種(戦前の高等官)は6級に編入され、「キャリア」と呼ばれる。民間では、長期雇用の定着と年功賃金は、ほぼ並行して広まったと考えられる。特に戦後、労使紛争が激化した1950年代に、安定した賃金を求める労働側の要求に対して定期昇給制度を採用したことが年功賃金につながったとする説が多い。

つまり年功序列は日本の伝統でも儒教の影響でもなく、官僚制度によって原型がつくられ、戦後の労使紛争の中で両者の妥協として大企業で成立した雇用慣行なのである。これは結果としては若い労働者に「強制貯蓄」させることによって、その忠誠心を高めてモラルハザードを防ぐ役割を果たした。しかし老人に生産性以上の賃金を払い続けることができるのは、企業が成長し、若者が増え続けるときだけである。賃金原資が減り始めると、ノンワーキング・リッチに「配当」を払うことはできなくなる。

これは年金や財政の破綻と同じ構造である。日本の企業組織も財政も、戦後の高度成長を前提にしてつくられ、それに適応して相互補完的なシステムができ上がっているのだ。その結果、老人と若者の利害の対立する問題では、つねに組織内の権力を握っている老人の既得権を守る決定が下される。この構造の前提となっている成長が止まった今は、官民ともにシステムを見直さなければならないのに、問題を先送りしてきたのが「失われた20年」の根本的な原因である。

追記:この記事にはかなり大きな誤りがあるので、訂正した。


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