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現代思想の断層

現代思想の断層: 「神なき時代」の模索 (岩波新書 新赤版 1205)
ニーチェは「来るべき200年はニヒリズムの時代になるだろう」という言葉を遺し、狂気の中で20世紀の始まる前年に世を去ったが、彼の予言はますますリアリティを増しつつある。

よく誤解されるように彼は「神を殺す」ニヒリズムを主張したのではなく、「神が自然死する」ことによって西洋世界が深い混迷に陥ることを予言し、それを克服する思想を構築しようとして果たせなかったのである。

本書はこのニーチェの予言を軸として、ウェーバー、フロイト、ベンヤミン、アドルノの4人の思想をスケッチしたものだ。ウェーバーとニーチェという組み合わせは奇異に感じる人がいるかもしれないが、ウェーバーは姜尚中氏の描くような「市場原理主義」をなげく凡庸な合理的知識人ではなく、ニーチェの影響を強く受け、キリスト教のニヒリズム的な側面が近代社会の合理的支配を自壊させると考えていた。

中心は著者の専門でもあるアドルノ論である。ヒトラーによって故郷を追われたアドルノは、ホルクハイマーとともに『啓蒙の弁証法』を書き、進歩をもたらすべき近代合理主義が、なぜ史上空前の大量破壊をもたらしたかを古代ギリシャにさかのぼって考察した。そこで彼らが見出したのは、ニーチェが批判してハイデガーに受け継がれた、自然の中に超越的真理を発見して支配する形而上学だった。近代の啓蒙主義は、その自然に対する支配の原理を科学技術という形で純化したにすぎない。

啓蒙的合理主義は西洋世界の比類ない経済的発展をもたらしたが、それはすべての彼岸的秩序を疑い、人々の帰るべき故郷を破壊してしまった。啓蒙は手段的合理性によって壮大な物質的富をもたらしたが、それはすべての目的や意味を否定するニヒリズムとなり、人々の精神的なよりどころを徹底的に否定したのだ。与えられた目的が正しいか否かを問わないで効率的に実行する啓蒙的テクノロジーが原初的な破壊本能と結びついたとき、アウシュヴィッツが生まれた。

しかしウェーバーもアドルノも、失われた故郷や伝統を取り戻せとは主張しなかった。啓蒙は不可逆の過程であり、近代の数百年の歴史の中で失われてしまった古きよき神話的世界を人工的に復元することはできないからだ。ニヒリズムがどんな宗教よりも強力なのは、それが人々に帰るべき故郷など元々ないという身も蓋もない事実を告げるからなのである。

大収縮1929-1933

大収縮1929-1933 「米国金融史」第7章(日経BPクラシックス) (NIKKEI BP CLASSICS)Friedman-Schwartzの古典(の第7章)が初めて訳された。本書はケインズのいう「総需要の低下によって通貨供給が減った」という因果関係を逆にして、FRBが通貨供給量を絞ったことが金融収縮をまねいて大恐慌をもたらしたことを定量的データによって証明したものだ。その後も本書については大論争があったが、Bernankeも基本的にFriedman-Schwartzが正しかったと結論している。FRBに引き締めの意図はなかったが、当時は金本位制だったため、金の流出を避けるために金利を引き上げたことが通貨供給の減少をもたらし、他国に不況を輸出したのである。

だから金融危機に対応する決定的な条件は、流動性を十分供給して銀行の連鎖倒産と取り付けを避けることであり、財政支出にはほとんど意味がない。1963年に出た本書がもう少し読みやすく書かれ、マクロ経済学の教科書に取り入れられていれば、戦後の多くの金融危機はもっと軽微で、財政赤字は少なくてすんだかもしれない。経済学は大した学問ではないが、それを知らないことは大きな災難をもたらすのである。

技術への問い

技術への問い (平凡社ライブラリー)
本書は、ハイデガー晩年のもっとも重要な論文「技術への問い」を中心にして5本の論文を集めたものである(復刊)。最初に断っておかなければならないのは、訳があまりにもひどく、とても通読できないということだ。たとえば技術をGe-stellという奇妙な言葉で表現する重要な部分は、本書ではこう訳されている:
われわれはいま、それ自体を開蔵するものを用象として用立てるように人間を収集するあの挑発しつつ呼びかけ、要求するものをこう名づける――集‐立(Ge-stell)と。
グーグルの自動翻訳でも、もう少しましな訳になるだろう。私は原文を読んではいないが、英訳のほうがはるかにわかりやすい。英訳ではGe-stellはenframingと訳されており、自然を一定の枠組の中で理解し、利用することだ。

この論文が重要なのは、若きハイデガーが『存在と時間』で提起した形而上学批判という問題に、晩年の彼が技術論という形で(暫定的な)答を出しているからだ。といっても彼が「テクノロジーが人間を疎外する」とか「自然と人間が共生しよう」などという陳腐なヒューマニズムを表明しているわけではない(彼はヒューマニズムを否定している)。続きを読む

上半期の経済書ベスト10

週刊東洋経済の恒例のリストの8位に、めでたく池・池本が入った。
  1. いまこそ、ケインズとシュンペーターに学べ
  2. アニマルスピリット
  3. 戦後世界経済史
  4. だまされないための年金・医療・介護入門
  5. ブラック・スワン
  6. 世界恐慌と経済政策
  7. 金融危機の経済学
  8. なぜ世界は不況に陥ったのか
  9. 金融革新と市場危機
  10. 誰から取り、誰に与えるか
1は連載記事をまとめたもので、ケインズとシュンペーターの議論がばらばらに紹介されていて焦点が定まらない。あとはほとんど当ブログで紹介した本だが、6は世界恐慌のときの日本の政策対応を数量経済史の手法で分析したもの。高橋財政がリフレ政策だったという説を批判して、金融システムの再建が重要だったとし、赤字財政によって財政規律がゆるんだことが戦時経済に突入するきっかけになったと指摘している。

希望を捨てる勇気―停滞と成長の経済学

希望を捨てる勇気―停滞と成長の経済学
次の本が、ようやく来月上旬にダイヤモンド社から出ることになった。タイトルは、当ブログで過去最高のアクセスを集めた記事からとったが、別に絶望をすすめる本ではなく、政権交代後の日本経済と経済政策を考えるものだ。まえがきから一部引用すると、
長期停滞についての処方箋を書くのは経済学者の仕事だが、日本では政策論争に経済学者がほとんど登場しない。経済学者は学術論文を書くのが本分で、ジャーナリスティックな仕事は「エコノミスト」にまかせておけばよいと思っているのかもしれないが、経済学はもともと「経世済民」のための実用的な学問であり、純粋理論に意味はない。ジョン・メイナード・ケインズは経済学者を歯科医のようものだと考えていた。
 
ただ経済学者は歯科医と違って、自分の力で経済問題を直すことはできない。それはむしろ自動車の運転技術のようなもので、多くの人々がそれを理解しないと意味がないのだ。ドライバーが自動車の製造技術を知っている必要がないように、誰もが経済学の論文を書く必要はないが、それがどう動くかを理解する必要はある。特に政策担当者は、法律職や行政職でも、学部の教科書ぐらいの知識をもっていないと困る。

この意味で経済学のロジックをわかりやすく伝え、合理的な政策を提案することは、その研究と同じぐらい重要だ。ケインズは師アルフレッド・マーシャルの追悼文で、経済学者の本業はパンフレットを書くことだとのべた(『人物評伝』)。特に日本が今、直面している問題は、戦後ずっと続いてきた産業構造や雇用慣行の行き詰まりなどの経済システム全体の問題であり、これを金融・財政などのマクロ政策や労使紛争と考えているかぎり、解決の糸口は見出せない。1990 年代から続いている経済の停滞は、まもなく「失われた20 年」になろうとしているが、その終わりは見えない。

目次

はじめに

第1章 格差の正体
 1.何が格差を生み出したのか
 2.新しい身分社会
 3.事後の正義
 コラム:情報の非対称性

第2章 ノンワーキング・リッチ
 1.社内失業する中高年
 2.働きアリの末路
 コラム:補完性

第3章 終身雇用の神話
 1.終身雇用は日本の伝統か
 2.日本型ネットワークの限界
 3.雇用のポートフォリオ
 コラム:効率賃金仮説

第4章 長期停滞への道
 1.長い下り坂が始まる
 2.輸出立国モデルの「突然死」
 3.希望の消えてゆく国で
 コラム:長期的関係

第5章 失われた20年
 1.どこで間違えたのか
 2.90年代をどう見るか
 コラム:自然利子率と自然失業率

第6章 景気対策の限界
 1.財政政策の欠陥
 2.金融政策の功罪
 コラム:リフレ論争

第7章 日本株式会社の終焉
 1.会社は誰のものか
 2.官僚社会主義の構造
 コラム:負の所得税とベーシック・インカム

第8章 「ものづくり立国」の神話
 1.「すり合わせ」ではもう生き残れない
 2.ITゼネコンの末路
 コラム:ホワイトスペース

第9章 イノベーションと成長戦略
 1.株主資本主義が必要だ
 2.リスク回避からリスクテイクへ
 3.イノベーションの意味
 4.創造的破壊の可能性
 コラム:コンテンツ産業の未来

おわりに

ソニーVSサムスン

ソニーは日本の代表的なグローバル企業だが、最近はグローバル化の失敗例として引き合いに出されるほうが多い。他方、ソニーに代わってアジアの電機メーカーの雄になったのはサムスン電子だ。本書は両社を比較し、その失敗と成功の要因を分析したものだ。

ソニーの最大の失敗は、大賀典雄社長の後継者に出井伸之氏を選んだことである。彼は大賀氏が「消去法で選んだ」と口をすべらしたように、取締役の中でも末席で、ソニー本流の技術系でもなく、とりたてて実績があったわけでもなかった。創業者のようなカリスマ性がない点を補うため、彼はカンパニー制にして各部門の独立性を高め、委員会設置会社にして取締役会が"active investor"として巨大化した組織を統治しようとした。

結果的には、これが失敗の原因だった。各期のボトムラインだけを見て資産を組み替える持株会社のような分権型システムは、企業が成熟して開発投資が少なく、オペレーションの効率性だけが重要な産業(食品・流通など)には適しているが、ソニーのような研究開発型の企業には向いていない。カンパニー制でEVAのような財務指標を基準にして事業を評価すると、各部門の利己的なインセンティブが強まり、短期的リターンを上げるために長期的な研究開発をおろそかにする傾向が生じる。EVAを上げるにはレガシー事業を延命して設備投資を節約することが有利になるので、収益を上げていたテレビやVTRなどのアナログ事業が延命される結果になった。

致命的なのは、技術的にはアップルよりはるかに先行していた音楽配信システムで失敗したことだ。要素技術は別々のカンパニーがもっていたが、それを統括するリーダーが不在だったため、バラバラに何種類ものシステムをつくり、子会社のレコード部門が著作権保護にこだわってMP3をサポートしなかった。このようにハードウェアとコンテンツとプラットフォームが連携しなければできない補完性の強いビジネスでは、集権的な組織のほうがいいのだが、800以上の子会社を抱えて水ぶくれした組織と求心力の弱い経営陣では、整合的な戦略がとれなかった。出井氏はこの問題を理解できず、「著作権の保護が弱いから音楽配信ができない」などと政府に苦情をいっていた。

サムスン電子の成功の原因は、ソニーの逆である。ここではユン・ジョンヨン副会長の「独裁的」なリーダーシップによって、メモリや液晶など少数のコア部門に資源を集中してソニーを上回る資本を投入し、コスト削減によって国際競争を勝ち抜く方針がとられた。技術力はソニーに及ばなかったが、彼らはそれを資本の集中と過酷な長時間労働でカバーし、素子の分野では世界最大の企業に成長した。その後は携帯電話やDVDレコーダーなどの完成品に進出しているが、この分野ではそれほど成功していない。

ソニーにいる友人の言葉によれば、ソニーの実態は今でも義理人情で動く「コテコテの日本企業」だという。その日本的な品質の高さがアメリカ的イノベーションと結びついたところにソニーの強みがあったのだが、出井氏はEVAとか「収穫逓増」などのバズワードに弱く、アメリカ型経営を直輸入すればグローバル企業になれると思い込んで、会社を壊してしまった。ソニーは、世界各国に拠点は置いているがグローバル戦略のない日本企業の象徴だ。

ザ・コールデスト・ウインター

ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 下 (文春文庫)
著者デイヴィッド・ハルバースタムは、本書の校正を終えた5日後に自動車事故で亡くなった。ベトナム戦争の報道でデビューした彼のキャリアが、朝鮮戦争で閉じられたのは不思議な因縁だ。著者もいうように、ベトナムからイラクに至るアメリカの軍事的失敗の原点がここにあるからだ。

本書の主人公は、マッカーサーである。士官学校を平均98点という史上最高の成績で卒業した彼は、第2次大戦の英雄となり、日本の占領統治を成功させた。そこで終わっていれば彼の軍人としてのキャリアは完璧だったが、そこに北朝鮮の攻撃という余計な仕事が降りかかってきた。敵の戦力を軽視していたマッカーサーの指揮する国連軍=米軍は緒戦では敗退を重ねるが、有名な仁川上陸によって形勢は逆転した。

しかしマッカーサーは北朝鮮軍を中国との国境まで深追いしたため、中国が参戦して戦争は泥沼状態となった。彼は原爆の使用を主張したが、トルーマン大統領以下、軍の中にもマッカーサーを支持する者はなく、彼は「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という有名な言葉を残して去る。そして毛沢東と金日成はこの戦争を「勝利」と総括し、アジアにおける冷戦の構図が固まった。

朝鮮戦争は、アメリカが北朝鮮を警戒して軍を韓国に配備していれば起こらなかった。この失敗で北朝鮮を増長させ、蒋介石が中国から追放されるのを放置したという批判を浴びた米政府は、その後、共産主義が広がるのを予防する戦略に転換し、ベトナム戦争などの失敗を繰り返した。マッカーサーの失敗をまねいたアジア人を蔑視する独善性や、戦況が悪いという情報が上層部に伝わらないバイアスなどは、そのままイラクまで引き継がれた。

本書はこの奇妙な戦争を、前線で戦った当事者へのインタビューによって詳細に再現している。上下巻で1000ページを超える分量にはいささか辟易するが、朝鮮戦争のドキュメントとしては、おそらく最高の作品だろう。

現代日本の転機

民主党の政策立案の中枢になる「国家戦略局」担当の副総理に、菅直人氏が内定した。人事としては順当なのだろうが、彼が戦略を立案できるのかどうかは疑問だ。社民党と一緒に彼が前の国会に提出した製造業の派遣を禁止する法案こそ、意図せざる結果を考えない非戦略的な政策の典型である。

そもそも国家戦略などというものを政府が立てることがナンセンスだ、とイースタリーのようなリバタリアンならいうだろうが、私はそこまで過激派ではない。よくも悪くも戦後の日本は1980年代まで、国家戦略なしで「超安定社会」を実現してきた。それが維持できなくなった今は、社会の中での国家の役割を見直す「メタ国家戦略」が必要だと思う。

著者もいうように、現状を「新自由主義の没落」とみるのは日本ローカルの発想であり、歴史学でも社会学でも大きな屈折点とみなされているのは、石油危機をきっかけとする「1973年の転機」である。これを機に「前期近代」まで有効だとされていたテクノクラートによる合理的支配がゆらぎ、福祉国家や大企業体制の限界が露呈した。経済問題でそれを象徴するのがスタグフレーションであり、それに対応して登場したのがレーガン政権などの「小さな政府」路線だった。

ところが日本はこの73年の危機をきっかけに世界市場でのプレゼンスを高め、スタグフレーションも経験しなかったため、欧米諸国が直面した「後期近代」への移行という問題に90年代になって直面した。日本の前期近代は、ウェーバー的な合理的支配というより、父権的な官僚と母権的な企業による「日本型福祉社会」だった。本来は国民負担でまかなわれるべき社会保障のコストを長期雇用などによって企業が負担したため、「高福祉・低負担」が実現したようにみえた。しかし90年代以降、その負担に耐えられなくなった企業が「やさしい母親」の役割を降り、海外移転や非正規雇用などによって資本の論理を追求し始めたため、格差や貧困などの問題が一挙に顕在化したのだ。

・・・と要約するとさほど斬新な話ではないが、よくも悪くも常識的な問題の整理だろう。著者もいうように、いま日本の直面している問題は、後期近代への過渡期の現象としての「自由と安定のジレンマ」であり、成長と分配のどちらをとるかという選択である。民主党のように後者をとるのも一つの戦略だが、それは成長を犠牲にし、分配の財源を枯渇させるリスクをはらんでいる。現実的な国家戦略は、このジレンマを直視することからしか出てこない。

追記:鳩山氏は、温室効果ガスを1990年比で25%削減すると表明したが、これによる国民負担は世帯あたり年間33万~91万円と推定されている。便益だけ強調して費用を無視するのは、戦略的な政策とはいえない。

傲慢な援助

"The White Man's Burden"の邦訳。開発経済学というのは、かつてはマイナーな学問だったが、最近は注目を集めている。マクロ経済学の関心が短期的な景気循環から長期的な成長理論に移り、先進国でも「成長戦略」が重要な問題になってきたからだ。他方、途上国は賢明な政府が指導すればいいという昔ながらの開発経済学も役に立たないことが判明し、両者の問題はかなり共通していることがわかってきた。

先進国にも途上国にもいえるのは、著者も指摘するように、政府の温情主義は有害無益だということである。経済を成長させるためには、民間人がまじめに働き、自由な市場経済が機能することが必要条件で、政府の役割は、そうしたシステムが機能するための制度的なインフラを構築すること以上でも以下でもない。家父長的な政府が「ビジョン」を描いて指導する産業政策は、先進国でも途上国でも機能しない。この意味で本書は、これから成長戦略を勉強する民主党のみなさんにも役立つだろう。

霞ヶ関維新

民主党政権の最大の課題は、官僚機構との闘いである。さっそく消費者庁や概算要求をめぐって鞘当てが始まっているが、こういうとき厄介なのは、官僚機構の匿名性だ。個人が反撃されないように責任の所在を曖昧にし、面従腹背で「よそもの」である政治家を情報的に孤立させてコントロールするのが彼らの常套手段である。この点、本書の著者である若手官僚は、実名で改革を提言している。霞ヶ関も、少しは変わりつつあるようだ。

しかしその改革の内容は、残念ながらよくも悪くも官僚的だ。最初に日本の「国力低下」を指摘して、それを建て直す「国家戦略」の必要を説き、その戦略を実現する官邸中心の「組織再編」を提言する構成は、審議会に提出される「事務方」の資料とよく似ている。15人の著者の共著であるため、一通り問題点は整理されているがメリハリがなく、本としてはつまらない(所属官庁への遠慮もあるのだろうが)。

最大の問題は、著者が「官僚機構は必要なのか」という根本問題を問わないで「霞ヶ関維新」を論じていることだ。必要なのは霞ヶ関の改革ではなく統治機構の改革であり、民主党のいうように明治期に日本が採用した官僚中心の国のかたちを見直すことが第一だ。それを抜きにして官僚機構だけを手直ししても意味がない。人事制度などについて部分的にはおもしろい指摘もあるが、20~30代の官僚が書いたにしては発想に新鮮さがない。

Silbermanなども指摘するように、日本のような行政中心の統治システムは、後発国の「追いつき型近代化」のために資源を総動員するには適しているが、経済が成熟して資源を最適配分することが重要になると、うまく機能しなくなる。効率を上げるにはシステムを分権化する必要があるが、官僚機構が権限を離さないからだ。こういうときは、まず行政に集中した権力を立法や司法に分離する必要がある。民主党のIT政策の目玉である「日本版FCC」も、むしろ総務省の裁量行政を司法に分離することを考えたほうがいい。

この点で、経営工学の博士号をもつ鳩山由紀夫氏が首相になるのはいい機会だ。彼の専門はOR(ネットワーク理論・ゲーム理論)だというから、最適配分の専門家である。大学でゲーム理論を講義できる首相が誕生するのは画期的なことで、システムを合理的に設計する技法については、オバマ大統領よりはるかにくわしいはずだ。数学の得意な鳩山氏には(最近発展した)メカニズムデザインを学んでいただき、政府が直接介入しないで人々のインセンティブを生かして効率的な結果を実現する制度設計を考えてほしいものだ。



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