機械学習は「知能」になるか

知能とはなにか ヒトとAIのあいだ (講談社現代新書)
「人工知能は人間の知能を超えるか」という問題は、半世紀ぐらい前から議論されている。1980年代の古典的人工知能では明らかに不可能だった。深層学習ができたころ「シンギュラリティ」という話があったが、これも単なる機械学習だった。

大規模言語モデル(LLM)は「知能」を可能にするようにみえるが、本書はそれも不可能だという。そのキーワードは非線形非平衡多自由度系である。これは物理学や複雑系科学で用いられる概念で、以下のような特徴を持つシステムを指す。
  • 非線形性:システムの出力が入力に比例しない。小さな変化が大きな結果を引き起こすことがある(バタフライ効果)。
  • 非平衡性:システムが常に変化し、平衡状態にない。外部からのエネルギーや情報の流入が持続的に行われている。
  • 多自由度:システムが多数の要素や変数から構成され、それらが互いに複雑に相互作用する。
このようなシステムは、気象現象や生態系、経済市場など、自然界や社会に広く見られる。そして、人間の脳もまた、非線形非平衡多自由度系の一例である。

LLMは、数十億から数兆のパラメータを持ち、これらのパラメータが互いに複雑に作用することで、高度な言語処理を実現している。これは一見すると脳と同じシステムのようにみえるが、重要な違いがある。

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生産性は上がっているのに、なぜ賃金が上がらないのか

日本経済の死角 ――収奪的システムを解き明かす (ちくま新書)
実質賃金が上がらないのは日本経済の最大の問題の一つだが、その原因について定説はない。よくあるのは「労働生産性が低いからだ」という説明だが、著者も指摘するように日本の生産性(時間あたり実質GDP)上昇率はG7の平均程度で、それほど低いわけではない。

ところが実質賃金は1990年代からほとんど上がっていない。これは他の国では賃金が生産性とほぼパラレルに上がっているのと対照的な日本の特異性である。

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OECDデータ(BNPパリバ証券)

この原因は何かという問題も、多くのエコノミストが論じてきた。考えられる原因は
  • 労働分配率の低下
  • 円安による交易損失
  • 内部留保の増加
労働分配率はそれほど下がっていない。交易損失は大きいが、2010年代に限られる。著者が指摘するのは内部留保(利益剰余金)の増加である。これもよくある説明だが、その原因が「企業がもうけを労働者に分配しないからだ」という話ではない。

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南方熊楠とニューラルネット

レンマ学
人工知能(機械学習)が大乗仏教に似ているという発想は新しいものではない。 30年以上前にヴァレラが そういう発想でニューラルネットの理論を考えた。このとき彼がモデルにしたのは龍樹( ナーガールジュナ)の中観思想だったが、それは彼の早すぎる死によって単なる比喩に終わってしまった。

本書は「レンマ学」という新しい学問を創造するというが、発想はヴァレラや丸山圭三郎とほぼ同じだ。話は南方熊楠から始まるが、中身は比喩以上のものではない。違いは中観の代わりに華厳経をモデルにしていることぐらいだ。

レンマというとわかりにくいが、これは山内得立が西洋哲学の基本思想であるロゴスに対して、東洋思想の特徴としたものだ。私が『平和の遺伝子』で使った言葉でいうと「古い脳」の動作原理で、デカルト的な数学の論理とは異なる「空気を読む」システムである。

思想的には新しくないが、粘菌やタコなど、いろいろな分野を横断して中枢機能をもたない分散知能をレンマに結びつける発想はおもしろい。ただその結論がチョムスキーの「デカルト派言語学」になってしまうのはぶち壊しだ。チャットGPTなら「それはチョムスキーじゃなくてウィトゲンシュタインでしょう」というだろう。

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田沼意次は「積極財政」の改革者だったのか

日本史 敗者の条件 (PHP新書)
田沼意次といえば昔は賄賂を取った金権政治家とされていたが、大石慎三郎『田沼意次の時代』が、1次史料でそのイメージをくつがえした。田沼が賄賂を取ったという話はほとんど政敵の流した噂であり、彼は商業の発展につとめ開拓事業をした改革者だったという。

これに悪乗りして、リフレ派が「田沼は積極財政だった」とか「リフレ派だった」などと礼讃したが、これは嘘である。田沼が株仲間や会所(企業)を認可して冥加金(税)を徴収した目的は、商業の活性化ではなく、商人への増税で財政再建しようとしたのだ。リフレ派のきらいな消費税と同じだ。

当時(18世紀後半)幕府の財政が行き詰まった原因は、年貢に依存した現物経済で、増税できなくなったことだ。それを打開するため、田沼は間接税の導入で貨幣経済を活用したが、幕府が特定の商人に認可を与えた結果、その商人が取引を独占し、許認可の見返りに役人に賄賂を渡す風潮が広がった。

その収賄の中心が田沼であり、最初は600石の旗本だった田沼は5万7000石の大名に成り上がった。もちろん役人が賄賂を取ったのは彼が初めてではないが、田沼が金権政治家だったという汚名は根拠のない話ではない。結果的には彼の改革はほとんど失敗し、彼が失脚すると白紙に戻ってしまった。

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網野善彦が飛礫に見出した日本人の「最古層」

蒙古襲来(小学館文庫)
本書は網野善彦のデビュー作だが、おもしろいのは冒頭に彼が書いている飛礫(つぶて)をめぐるエピソードである。彼は中世の文献を渉猟し、おびただしい飛礫についての記録があることを見出す。祭のとき礫を飛ばす習慣があり、それを幕府が禁じると飢饉が起こるという言い伝えもあった。

網野の甥である中沢新一氏によれば、網野が飛礫に興味をもったきっかけは、佐世保闘争で三派全学連が機動隊に向かって投石しているのを見て、子供のころやった石投げ合戦を思い出したことだという。子供が川の両岸に並んで激しく石を投げ合う行事が毎年5月にあったが、それは中世から受け継がれた通過儀礼だったのだ。

このようなエネルギーの源泉が、中沢氏もいうように「日常生活の底が抜けた」とき垣間見える暴力への衝動だとすれば、それは丸山眞男のいう「古層」よりも古いかもしれない。人類は歴史の99%において狩猟採集生活を送ってきたのだから、その遺伝子に組み込まれている「最古層」は、農民ではなく自由を求めるノマドの感情なのだ。

縄文時代の武器は礫だった。それは直立歩行で手が自由になった人類の最強の武器であり、かつては狩猟で役に立った。しかし日本人は飛び道具を禁止し、争いを避けた。それに対してモンゴル人は飛び道具を進化させ、騎馬戦という新たな軍事技術でユーラシア大陸を制覇した。それが日本侵略に失敗したのは「神風」のおかげではなかった、と網野はいう。

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男系男子の皇室典範を起草した井上毅は「選択的夫婦別姓」論者だった

「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史 (講談社現代新書)
外務省は国連の女性差別撤廃委員会が「男系男子に皇位継承を限る皇室典範は女性差別だ」として改正を勧告したことへの対抗措置として、同委員会への日本の任意拠出金を打ち切ると通告した。

外務省の主張は「天皇や皇族に基本的人権はないので、女性差別には該当しない」というものだが、外国人はそんな憲法の規定は知らないので、海外から女性差別とみられることは避けられない。そもそも女系天皇を認めないことに実質的な意味はあるのだろうか。

1889年に皇室典範を定めたのは、法制局長官だった井上毅である。制定当初の議論では、女帝も排除されていなかった。過去に女帝はいたし、他国にも女王は珍しくないからだ。

ところが井上は「男系男子」にこだわった。これでは側室を廃止すると後継者がなくなるリスクがあったが、彼は「たとえば女帝を源家から迎えた場合、皇室が源家になってしまう」と反対した。
欧羅巴(ヨーロッパ)ならば源姓と称へながら源姓の人も女系の縁にて皇位を継ぐこと当然なりとあきらむるなり。欧羅巴の女帝の説を採用して我が典憲とせんとならば、序にて姓を易ふることをも採用あるべきか、最も恐ろしきことに思はるるなり。(勤具意見)

「姓を易ふること」とは易姓革命、つまり天皇家から別の王家に変わる革命だが、これは奇妙な論理である。中国の皇帝には姓があるが天皇家にはないので、たとえば小和田雅子が天皇と結婚すると「雅子」になる。その子も「愛子」であり、彼女が一般男性と結婚して彼が皇室に入ると姓はなくなる。

したがって女系天皇を認めても天皇家が源家になることはなく、井上のこだわった「万世一系」の皇統は変わらない。そもそも天皇は万世一系ではなく、男系男子で継承されてきたわけでもない。それは明治国家を日本書紀の神話で統一しようとした井上の創作した物語なのだ。続きを読む

ヒトの言葉 機械の言葉

ヒトの言葉 機械の言葉 「人工知能と話す」以前の言語学 (角川新書)
チャットGPTのマニュアル本は世の中にあふれているが、そのしくみを解説した本は少ない。たまに「GPTのしくみ」というような本を間違って買うと、Pythonのコードが山のように出てきて、さっぱりわからない。本書は数学やプログラミング言語を使わないで人工知能を使って言語学を解説する入門書である。チャットGPTのしくみを超簡単に知りたいという人におすすめできる。

一昔前までは言語学といえば、ソシュールに始まってチョムスキーで終わるのが常識だったが、本書にはどっちもほとんど出てこない。最初に出てくるのは機械学習で、そこからGPTの話に発展し、人間の言語の話はほとんど出てこない。人間の言葉を理解する理論として使われているのは、ウィトゲンシュタインの言語ゲームである。

フレーム問題や記号接地問題という人工知能でおなじみの問題もやさしく解説している。たとえば「テレビでおしょくじけんの話をしてたよ」という言葉を、ある人は「汚職事件」と聞き、ある人は「お食事券」と聞く。そのどっちが正しいかは、発音では区別できない。政治の話をしているかレストランの話をしているかという文脈がわからないと、意味が決まらないのだ。

20世紀の言語学は文脈自由文法なので、まず主語と述語と目的語で文をつくり、それを組み合わせて複雑な文章ができると考えた。しかし実際の会話はその逆で、文脈がすべてだ。日本語には主語がないといわれるが、それはGPTと同じだ。世界の言語に共通するのは、文脈依存性なのだ。言葉には文脈しかないので文法も辞書もいらないというGPTの割り切りは、予想をはるかに超える成功を収めた。それは言語の本質について重要なインプリケーションをもつ。

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仏教は量子力学のパラドックスを解けるか

新版 仏教と事的世界観
廣松渉は仏教について聞かれると「印哲はサボっていたので苦手だ」といっていたが、この対談を読むと、大乗仏典を読んでくわしく仏教を勉強していたことがわかる。彼の事的世界観はウィトゲンシュタインの「世界は事の総体であって物の総体ではない」という言葉から来たものだが、物の実在を否定する仏教の<空>の哲学に近い。

西洋哲学が「有の哲学」だとすれば、仏教は「無の哲学」だが、<空>という概念は有と無の区別も認めない。実体概念を否定する廣松の関係主義は、仏教の<縁起>である。その応用問題として本書で論じているのは、観測問題などの量子力学のパラドックスである。

これは昔から指摘されていたが、ベルの不等式は成立しないことが実験で証明され、パラドックスではなくなった。宇宙には局所的な因果関係を超えて伝わる遠隔作用があり、今ではそれを実装した量子コンピュータができている。

このような遠隔作用は、宇宙が多くの物の総体ではなく、非局所的な事の総体であることを示しているが、これを説明する哲学は存在しない。物理学者も「世界は関係からできている」というが、それだけでは遠隔作用は説明できない。

ドイツ観念論以降の西洋哲学はすべて本質的には唯名論なので、現象を超える実在(物自体)を説明できない。そこでは物自体は認識とは無関係だと想定しているが、量子力学は認識と実在が不可分であることを示し、このアポリアをさらに深刻にした。しかし仏教にその答はあるのだろうか。

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子供はどうやって大人より速く正確に言葉を覚えるのか

言語はこうして生まれる―「即興する脳」とジェスチャーゲーム―
幼児が言葉を覚える速さは驚異的である。家族の貧弱な言葉を聞くだけで、3歳児までにある程度しゃべれるようになる。大人になってから学校で外国語を習っても、子供の話す母国語にはとてもかなわない。

子供がどうやって限られたサンプルから豊かな言葉を創造するのか――この謎をチョムスキーは「プラトンの問題」と呼び、それに対する彼の答が普遍文法だった。世界中の子供は生まれながらに同じ普遍文法を脳にもっているというのだが、それは具体的にどんな文法なのか。チョムスキーの理論は二転三転し、50年以上たっても普遍文法は見つかっていない。

それに対してチャットGPTは、プラトンの問題を見事に解決した。そこには文法も辞書もなく、経験主義で文脈からパターンを推測して言葉を創造する。これはウィトゲンシュタインの言語ゲームの理論の実装である。Open AIのエンジニアはウィトゲンシュタインを知らなかったらしいから、彼の理論を独立に証明したことになる。

本書(原題は"The Language Game")は子供の言語習得の実験や観察で言語ゲームの理論を実証し、チョムスキーの理論を否定してチャットGPTに可能性を見出している。続きを読む

ソシュールからGPTにつながる<空>の思想

言葉と無意識 (講談社現代新書 871)
ヘレン・ケラーが言葉を覚えたエピソードは有名である。サリバン先生がケラーの手のひらに水を注いで"water"という文字を指で綴ったとき、ケラーは初めてそれが水という液体を意味すると知った。ここではwaterという言葉が水という意味に1対1に対応しているようにみえる。

しかし手のひらの液体は飲料水かもしれないし、雨水かもしれない。確かなことはそれにwaterという名前がついていることだけだ。つまり本質が言葉を生むのではなく、言葉(シニフィアン)が意味(シニフィエ)を生み出すのだ。その関係は恣意的であり、発音と意味には因果関係はないというのが、ソシュールの構造言語学の重要な発見である。

それとほぼ同じことを、その2000年近く前にナーガールジュナ(龍樹)が書いている。彼は『中論』で「すべてのものの原因となる自性は認められない」という。自性は自己完結的な本質という意味で、これは「世界に因果関係や本質はない」という<空>の思想である。これは世界が存在しないと言っているのではなく、その意味が一義的に決まらないというソシュールの恣意性と同じだ。

ではその意味は何で決まるのか。それは縁起で決まるというのが中観派の思想だが、これは因果関係ではなく相互依存関係である。意味はその本質ではなく、外界や身体との相互作用や他の言葉との関係で決まる。たとえばwaterの意味はoilとの差異で決まるのだ。

本書は1987年の本なのでそれ以上は書いてないが、このような大乗仏教の関係主義は、ヴァレラも指摘するようにニューラルネットの思想と似ている。それは1990年代以降の人工知能の重要な発見だった。続きを読む




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