日本語も日本人も普遍的である

日本語と西欧語 主語の由来を探る (講談社学術文庫)
日本人は自分が特殊な民族と思いがちだが、最近わかってきたのは、日本人の特徴は意外に普遍的だということだ。その一つの例証が言語である。日本語は「主語が不明で曖昧だ」といわれるが、文に不可欠なのは述語であり、主語を明示しない言語が世界では多数派である。

人類の歴史の99%以上を占める石器時代の集団生活では、集団から離れて生きることは不可能だったので、主語はつねに「われわれ」であり、誰が行動するかを明示する必要はなかった。英語でも古英語には主語はなかったが、1066年のノルマン征服でフランス語が公用語になり、多くの民族が混じる中で、主語が文頭で明示されるようになった。

日本語では、いまだに「あなた」や「彼」という人称代名詞を使うことがほとんどない。能動態と受動態の区別もない。「れる・られる」は受け身だけでなく、尊敬・可能・自発などの意味で広く使われる中動態(中動相)である。

どっちが普通なのか。世界的には、日本語のほうが圧倒的多数派である。主語を明示するのは、インド=ヨーロッパ語族の一部であり、世界のほとんどの言語には主語がない。今ごろ中動態を発見するのは、「私は散文で話していたのか」と驚くモリエールの貴族のようなものだ。

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中国バブルはなぜ崩壊しないのか

中国経済の謎―なぜバブルは弾けないのか?
中国経済はバブルだから今年は崩壊する、と(期待をこめて)毎年予言されるが、いまだに崩壊しない。それはなぜだろうか。本書はその原因として、次のような特徴をあげる。
  1. 経済成長の「伸びしろ」がある:中国は「世界第2の経済大国」とよくいわれるが、一人あたりGDPは1.4万ドル。まだアメリカの17%の発展途上国である。1980年代の日本の一人あたりGDPがアメリカの80%を超え、20世紀のうちにアメリカを超えるといわれた状況とは違う。

  2. 貯蓄が多く金融システムが安定している:「一人っ子政策」で子供が減って消費が減り、社会保障も不備なので、貯蓄率は50%近い。外国為替が制限されているので資本逃避もできず、余剰資金は銀行に預金されている。大手銀行は国有なので、政府のコントロールがききやすい。

  3. 危機に対して超法規的な対応がとれる:民主国家と違って、独裁政権は法の制約を受けない。特に習近平は政治局からライバルを追放し、独裁の傾向を強めている。行政は地方に分権化されているが、官僚は優秀で政権に忠実だ。言論の自由がないので批判もなく、危機管理がしやすい。
しかしこういう長所は、その弱点ともなる。本書も指摘するように、今の中国は1990年代の日本とよく似ている。続きを読む

ウォール街のランダム・ウォーカー

ウォール街のランダム・ウォーカー<原著第13版> 株式投資の不滅の真理 (日本経済新聞出版)
今や定番となったゴードン・マルキールの投資ガイドの第13版。全世界で50年間に200万部以上売れたベストセラーだが、その主張は初版から一貫している。株式市場に勝つことはできないので、投資信託よりインデックスを買えという原則である。

1977年にインデックスファンドが初めて売り出されたとき、それを1万ドル買った人の資産は、配当もインデックスに再投資したとすると、50年後には214万ドルになった。それに対して、プロの運用する投資信託(アクティブ投信)は148万ドルである。

この原則の理論的な背景は、市場がすべての情報を織り込んでいるという効率的市場仮説(EMH)で、その原理は次の二つである。
  • 株式市場では、新しい情報はすみやかに株価に織り込まれる。
  • 高いリスクを取ることなしに、高いリターンを上げることはできない。
当たり前の話みたいだが、これはあくまでも仮説で、現実の株式市場が効率的かどうかは、50年前にはわからなかった。これを精密に理論化したのがCAPMで、本書のコアはCAPMのやさしい解説である。

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日米開戦に勝算はあったのか

武藤章 昭和陸軍最後の戦略家 (文春新書)
日本がなぜ対米戦争に突入したのかという問題は、毎年この季節になると話題になるが、決定的な答はない。誰が最終的に決めたのか、よくわからないからだ。

もちろん昭和天皇の詔書がなければ開戦できなかったので、形式的な責任は天皇にあるが、実質的な決定をおこなったのは内閣(東條英機首相)である。しかし東條は、できれば開戦を避けたいと考えていた。陸軍省の軍務局長だった武藤章も、対米交渉で妥協しようとしていた。

では誰が日米開戦を決定したのか。本書の見立てでは参謀本部の田中新一作戦部長だが、これは奇妙な話である。参謀本部は戦争の作戦を立てる部局であり、開戦の意思決定をする権限も、それを実行する機能もなかった。大本営も開戦の方向でまとまっていたわけではなく、交渉継続派と開戦派に二分されていた。

そのバランスを崩したのは、1941年11月26日に出されたハル・ノートだった。慎重派だった武藤も、これを「交渉打ち切りの通告」と考え、参謀本部の説得をあきらめた。しかし参謀本部は、どうやってアメリカに勝とうと考えたのだろうか。

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国家に抗する社会

国家に抗する社会―政治人類学研究 (叢書 言語の政治)
レヴィ=ストロースは未開社会を平和な「冷たい社会」と考えたが、彼の弟子クラストルは北米の先住民を調査し、それがつねに他の部族と戦っていることを発見した。彼らが平和にみえるのは、国家を拒否して戦争を抑制しているからだ。

部族が生き残るためには、他の部族との戦争を指導する首長が必要だが、彼が王になることは許されない。必要もないのに戦争を始めると他のメンバーは離れ、首長は敵の矢を体中に受けて死ぬ。首長は一方的に命令するのではなく、部族の合意に従わなければならない。

この思想は、最近のグレーバーの「アナーキズム人類学」にも受け継がれている。従来は農耕が国家を生み、それが戦争を生んだと思われていたが、それは逆である。ドゥルーズ=ガタリがクラストルに触発されて書いたように、国家は戦争を抑止するために生まれたのだ。

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世界は「新しい奴隷制」に近づいている

Time on the Cross: The Economics of American Slavery by Robert William Fogel Stanley L. Engerman(1995-08-17)
アメリカ大統領選挙の共和党候補に名乗りを上げたフロリダ州のデサンティズ知事が批判を浴びている。フロリダ州の新しい歴史教育カリキュラムに「奴隷制にはいい面もあった」という表現があるからだ。

近代社会では、すべての個人はひとしく譲渡不可能な人権をもつことになっているので、人的資本を売買する奴隷制は禁止されているが、その合理的根拠は明らかではない。本書はアメリカの奴隷制が、賃労働より効率的だということを数量経済データで実証して大反響を呼び、フォーゲルはノーベル経済学賞を受賞した。

その主要な結論は山形浩生氏の仮訳によれば、次のようなものだ。
  • 奴隷農業は自由農業に比べて非効率ではなかった。大規模耕作、効果的なマネジメント、労働と資本音集約的な活用で、南部の奴隷農業は、北部の家族農業システムに比べて35%効率が高かった

  • 奴隷は確かに、生産した収入の一部が所有者により召し上げられたという意味では収奪されていた。だがその収奪の比率は、一般に思われていたよりもはるかに低い。生涯にわたり、平均的な奴隷農夫は、生産した収入の90%ほどを受け取っていた

  • 南北戦争以前の南部の経済は、停滞するどころかかなり急成長していた。1840-1860年の間に、一人あたり所得は、全米平均よりも南部のほうが急上昇した。1860 年には、南部は当時の基準では高い一人あたり所得を実現していた
これは常識に反するが、経済学の理論には合致している。もし奴隷制で人的資本が売買できるなら、労働者はロボット(物的資本)と同じなので、企業はその生み出す価値(キャッシュフロー)が人的資本のコストを上回るとき労働者を買い、価値がなくなったら売ればよい。奴隷制では雇用契約のような交渉問題が発生しないので効率的だ、というのが、ハートの不完備契約理論である。

これは空想的な話のようにみえるだろうが、現実の世界は新しい奴隷制に近づいている。たとえば機械学習ロボットで、年収500万円の銀行員の事務労働を100%代替できるとしよう。ロボットのリース料が年500万円なら、銀行員を雇うよりロボットを借りることがはるかに効率的である。ロボットには労使交渉は必要なく、将来の賃上げもないからだ。

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フランクフルト学派と批判理論

フランクフルト学派と批判理論:〈疎外〉と〈物象化〉の現代的地平
日本でもLGBTや移民など、アイデンティティをめぐる議論が盛んになってきた。これはアメリカの流行の輸入だが、その理論的背景として持ち出されるのが、批判的人種理論、批判的ジェンダー理論、ポストコロニアリズムなどの批判理論である。

その元祖は、フランクフルト学派である。これはワイマール時代のドイツで生まれ、ヒトラーの弾圧を逃れてアメリカに亡命した知識人のつくった理論で、その代表作は『啓蒙の弁証法』である。

これはきわめて難解な著作だが、アドルノとホルクハイマーの問題意識は一貫している。啓蒙すなわち近代科学が、強制収容所や核兵器を生んだのはなぜか。人間を豊かにするはずだったテクノロジーが、人類を滅ぼす一歩手前になっているのはなぜだろうか。

それは啓蒙が疎外を生み出し、世界を物象化したからだというのが彼らの仮説だが、これはドイツ人以外にはほとんど理解できない概念である。アメリカ人にもわからなかっただろうが、彼らの結論はわかりやすい。資本主義を否定しろということだ。

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反原発運動はソ連が西側に送り込んだ「トロイの木馬」

Green Tyranny: Exposing the Totalitarian Roots of the Climate Industrial Complex
脱炭素運動もウクライナ戦争で頓挫し、終幕を迎えたようだが、いまだにわからないのは、この科学的にも経済的にもナンセンスな運動が、なぜこれほど長く続き、世界的に拡大したのかということだ。本書はこれを冷戦期のドイツの歴史から説き起こす。

1960年代に西ドイツでも、ベトナム反戦運動が起こった。そのイデオローグはアメリカから帰国したフランクフルト学派で、マルクーゼは旧左翼が敗北したのは労働者が豊かになって体制に取り込まれたからだと考え、資本主義の豊かさを否定する闘いが必要だと学生を煽動した。

豊かさを否定する闘いの目標としてアメリカで選ばれたのは人種差別だったが、ドイツでは環境破壊だった。ドイツ人には自然回帰の傾向が強く、森林破壊に反対する右派が1977年に「緑の党」を結成した。そのロゴマークを描いたのは元ナチス党員で、太陽はナチスのシンボルだった。


緑の党のロゴマーク

他方ベトナム反戦運動が衰退すると、学生運動の残党は反公害運動に転身し、泡沫政党だった緑の党への「加入戦術」で党を乗っ取った。1980年代にNATOの巡航ミサイルと戦術核がドイツに配備されると、全ヨーロッパで平和運動が起こり、緑の党はその中心となった。

ソ連は「平和運動」を支援し、東ドイツの秘密警察は西ドイツ国内に多数の工作員を送り込んで原爆と原発を混同させる宣伝戦を繰り広げた。これによって反原発運動が始まり、環境活動家が生まれた。それは冷戦でソ連が西側を分断するために送り込んだ「トロイの木馬」だったのだ。

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LGBTはアメリカ発の「新しい新左翼」

American Marxism (English Edition)
最近、ジェンダーや移民などの差別の話題が日本でも騒がれるようになった。経産省トイレ訴訟で、トランスジェンダーが女子トイレを利用する権利というきわめてマイナーな問題を最高裁が取り上げたのは、LGBT法と並んで日本も「ジェンダー先進国」になろうということだろうが、トランスジェンダーは人口の0.5%程度の超少数派である。

それがこれほど大きな騒ぎになるのは、アメリカからの輸入である。アメリカは移民の国だから人種差別が日常的に起こっており、特に黒人差別は政治の最大の争点である。もう一つは性差別で、女性の社会的地位の問題はほぼ解決したが、ゲイなどの性的マイノリティ(LGBT)に対する差別を糾弾する運動が盛り上がっている。

その背景にはアメリカの価値を破壊しようとするマルクス主義の陰謀がある、というのが本書の見立てで、2020年にBLMが始まったあと出版され、ベストセラーになって100万部以上売れた。中身はまじめに論じるには値しないが、おもしろいのは、ジェンダーや黒人問題が騒がれるようになった背景に、批判理論があるという指摘である。

日本の陰謀論者は「フランクフルト学派」と訳すのでピンと来ないが、これは1960年代に流行した新左翼の理論で、その中心はヘルベルト・マルクーゼだった。彼は左翼の伝統がなかったアメリカにマルクス主義を持ち込み、新左翼のアジテーターになった。それを焼き直したのが、今のジェンダー理論や批判的人種理論(CRT)などの「新しい新左翼」である。

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日本人はなぜ放射能のケガレを恐れるのか

Risk and Culture: An Essay on the Selection of Technological and Environmental Dangers (English Edition)
ALPS処理水についてのIAEA報告書をめぐる騒ぎを見て、あらためて日本人のケガレ意識の強さを痛感した。このような感情は、遺伝的なものではない。人類は600万年の歴史のほとんどを狩猟採集の移動生活で過ごしてきたので、汚物を避ける習慣を身につけていないからだ。

乳幼児は、しつけないと排泄物の処理ができない。今でも移動生活するブッシュマンにはゴミや排泄物を処理する習慣がなく、それが汚いという感情もない。ケガレの感情は、1万5000年前から人類が定住し始めたあと身につけた文化遺伝子なのだ。

中でも疫病は、最大のタブーだった。人々はそのリスクをケガレとして表現し、疫病で死んだ人を集落から隔離した。彼らには感染の原因はわからなかったが、死者から距離を置かないと危険だということは経験的にわかったので、死者を墓地に埋葬して集落から隔離した。

現代の環境主義運動もこのような宗教的カルトだ、とメアリー・ダグラスは指摘する。彼女が『汚穢と禁忌』で明らかにしたように、リスクは自然現象ではなく、個人の心理の問題でもない。それは社会的につくられ共有されるタブーなので、科学的に啓蒙するだけではカルトはなくせないのだ。

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