子供はどうやって大人より速く正確に言葉を覚えるのか

言語はこうして生まれる―「即興する脳」とジェスチャーゲーム―
幼児が言葉を覚える速さは驚異的である。家族の貧弱な言葉を聞くだけで、3歳児までにある程度しゃべれるようになる。大人になってから学校で外国語を習っても、子供の話す母国語にはとてもかなわない。

子供がどうやって限られたサンプルから豊かな言葉を創造するのか――この謎をチョムスキーは「プラトンの問題」と呼び、それに対する彼の答が普遍文法だった。世界中の子供は生まれながらに同じ普遍文法を脳にもっているというのだが、それは具体的にどんな文法なのか。チョムスキーの理論は二転三転し、50年以上たっても普遍文法は見つかっていない。

それに対してチャットGPTは、プラトンの問題を見事に解決した。そこには文法も辞書もなく、経験主義で文脈からパターンを推測して言葉を創造する。これはウィトゲンシュタインの言語ゲームの理論の実装である。Open AIのエンジニアはウィトゲンシュタインを知らなかったらしいから、彼の理論を独立に証明したことになる。

本書(原題は"The Language Game")は子供の言語習得の実験や観察で言語ゲームの理論を実証し、チョムスキーの理論を否定してチャットGPTに可能性を見出している。

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大乗仏教の<空>の思想は人工知能の遠い先祖

言葉と無意識 (講談社現代新書 871)
ヘレン・ケラーが言葉を覚えたエピソードは有名である。サリバン先生がケラーの手のひらに水を注いで"water"という文字を指で綴ったとき、ケラーは初めてそれが水という液体を意味すると知った。ここではwaterという言葉が水という意味に1対1に対応しているようにみえる。

しかし手のひらの液体は飲料水かもしれないし、雨水かもしれない。確かなことはそれにwaterという名前がついていることだけだ。つまり本質が言葉を生むのではなく、言葉(シニフィアン)が意味(シニフィエ)を生み出すのだ。その関係は恣意的であり、発音と意味には因果関係はないというのが、ソシュールの構造言語学の重要な発見である。

それとほぼ同じことを、その2000年近く前にナーガールジュナ(龍樹)が書いている。彼は『中論』で「すべてのものの原因となる自性は認められない」という。自性は自己完結的な本質という意味で、これは「世界に因果関係や本質はない」という<空>の思想である。これは世界が存在しないと言っているのではなく、その意味が一義的に決まらないというソシュールの恣意性と同じだ。

ではその意味は何で決まるのか。それは縁起で決まるというのが中観派の思想だが、これは因果関係ではなく相互依存関係である。意味はその本質ではなく、外界や身体との相互作用や他の言葉との関係で決まる。たとえばwaterの意味はoilとの差異で決まるのだ。

本書は1987年の本なのでそれ以上は書いてないが、このような大乗仏教の関係主義は、ヴァレラも指摘するようにニューラルネットの思想と似ている。それは1990年代以降の人工知能の重要な発見だった。

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ブッダの<空>の思想はなぜ民衆の支持を得たのか

初期仏教 ブッダの思想をたどる (岩波新書)
『平和の遺伝子』を書いてわかったのは、日本人は特殊ではないということだ。進化心理学の最近の知見によれば、小集団の利益を最大化する日本人の偏狭な利他主義は普遍的で、利己主義や法治主義で行動する未開社会はない。

そういうヨーロッパ的な価値観が普遍的にみえるのは、単にキリスト教国が世界を植民地支配し、資本主義が経済的に成功したからだ。そこでは利己的な欲望を肯定する一方、社会の秩序を維持する<制度>が必要だった。

枢軸時代の世界宗教はそういう制度だったが、仏教だけは例外だった。その母体となったバラモン教は身分制度だったが、ブッダが創始したのは個人を<救済>する宗教だった。それは当時の時代背景と関係がある。

紀元前500年ごろガンジス川流域にはアーリア人の小規模な地域国家がたくさんあったが、西域から進出してきたアケメネス朝ペルシャとの戦争の中で滅びた。この戦乱の時期に多くの宗教が花開いた。中でも仏教はすべての制度を<空>として否定する一種のアナーキズムだった。

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戦争の「バスに乗り遅れるな」とあおった毎日新聞(アーカイブ記事)

今年は戦後80年でもあるが、この毎日新聞の記事には唖然とした。

筆者は毎日新聞の栗原俊雄記者。「為政者の嘘を暴けなかった」などと、まるで新聞が被害者のような書きぶりだが、東京日日新聞(毎日新聞の前身)は加藤高明が社長をつとめた御用新聞として主戦派の論陣を張り、1940年に日独伊三国同盟を推進した急先鋒である。

当時ドイツ軍はヨーロッパで快進撃を続け、北欧やフランスを占領して、イギリスの陥落は時間の問題だと思われていた。松岡洋右外相は三国同盟の締結に奔走し、東京日日新聞ロンドン特派員は「バスに乗り遅れるな」と書いて三国同盟をあおった。これが流行語になり、三国同盟が結ばれたときの新聞は、祝賀一色だった。

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チャットGPTはいかにして「フレーム問題」を解いたのか

意味がわかるAI入門 ――自然言語処理をめぐる哲学の挑戦 (筑摩選書)
世の中にはチャットGPTの本やセミナーがあふれている。ああいう深層学習の考え方は2000年代からあり、音声認識や画像認識には使えるようになったが、自然言語だけはだめだった。それは言葉の文脈を機械に学習させることがむずかしいからだ。たとえば次のような質問を機械にしてみよう。

おもちゃが箱に入らなかった。それは大きすぎたからだ。大きすぎたのは何か?

これは有名なWinograd Schemaという問題で、1972年にWinogradの著書で発表されたが、当時の人工知能では答えられなかった。「それ」が何をさすのか、わからないからだ。正しく答えるには、おもちゃと箱のどっちが大きいのか、箱をおもちゃに入れることはできないのか、といった予備知識(フレーム)を無限に学習させないといけない。

これをフレーム問題という。第5世代コンピュータではそのフレームを人間が入力したが、これでは膨大な労力が必要になり、小学3年生の国語の問題を1問とくのに1年かかった。人工知能でフレーム問題は解決できない、というのが5Gの結論だった。

しかしチャットGPTに上の質問をすると、「大きすぎたのはおもちゃです」と正しく答える。この簡単な問題を解くのに50年もかかったのは、言語をめぐる思想の大転換が必要だったからだ。

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普通選挙の「昭和デモクラシー」が軍部の暴走を生んだ(アーカイブ記事)

戦前日本のポピュリズム - 日米戦争への道 (中公新書)
大正デモクラシーという言葉があるが、最初の普通選挙がおこなわれたのは昭和3年(1928)である。デモクラシーを普通選挙と定義するなら、昭和デモクラシーと呼ぶのが正しい。第1次大戦で専制国家が民主国家に敗れたのを見て、政府は総力戦体制としてのデモクラシーをつくろうとしたのだ。

それまでの有権者は地租を納める地主だったが、普通選挙で一般の男子に選挙権が拡大し、有権者は8倍以上に増えた。1940年に大政翼賛会ができるまで政党は存在し、満州事変にも日中戦争にも圧倒的多数で賛成した。昭和の暴走は、デモクラシーを抑圧する「反革命」ではなく、昭和デモクラシーから生まれたのだ。続きを読む

東洋と西洋の差異を超える「空」の思想

意味の深みへ: 東洋哲学の水位 (岩波文庫 青 185-4)
ハイデガーのいう「惑星的思考」のできる日本人は数少ないが、井筒俊彦はその一人だった。本書もシーア派イスラムからジャック・デリダまで縦断するエッセイ集だが、そこには一つのモチーフがある。人類に普遍的な文化はあるのかということだ。

遺伝的な「普遍文法」を追求したチョムスキーがたどりついたのは、ほとんど中身のないミニマリスト理論だった。地球上の7000余の言語には(同じ起源から派生したものを除いて)文法にも語彙にもまったく共通性がない。言語は異文化の共約不可能性を示しているのだ。

しかし言語哲学には普遍性がある。世界を言葉による差異の体系とみる思想は、西洋では20世紀にソシュールが提唱したが、東洋には昔からあった。荘子は「言葉にしなければ万物に区別はないが、言葉にした途端に別々の物になる」といい、老子はこれを木にたとえた。森の中の木には名がないが、それを加工すると柱や器という名がついて存在する。

そういう論理を徹底的に追究した仏教の中観派は、言葉に対応するのは「空」だという。それに対して唯識派は、言葉より深い層に主体と客体の不可分なアラヤ識があると考えた。これはフロイトのような個人的な無意識ではなく、共同体の中で歴史的に共有される暗黙知である。

これを著者は「言語アラヤ識」と呼び、ロゴスを超える深層構造と考える。それは多くの人々の経験の蓄積なので共約不可能だが、その構造には普遍性があるかもしれない。生成AIが発見したのも、そういうビッグデータの数学的構造は多くの言語に共通だということだった。

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大規模言語モデルは言葉の「意味」を知らない

大規模言語モデルは新たな知能か ChatGPTが変えた世界 (岩波科学ライブラリー)人工知能をめぐるブームは、これまで4回あった。第1のブーム(1950年代)はほとんど話題にならなかったが、第2のブーム(1980年代)では日本の第5世代コンピュータなどの派手なプロジェクトがあった。このときは私も番組をつくったが、何も成果が出ないままに終わった。

1990年代にはニューラルネットの第3のブームがあったが、これも大した成果が出ないまま終わった。そして2020年代が第4のブームだが、深層学習は技術的にはニューラルネットの延長で、指紋認証や音声認識はできるようになったが、それは知能といえない。

だがチャットGPTには、今までの挫折を吹き飛ばすインパクトがあった。最大の鬼門だった自然言語処理を実現したからである。しかも翻訳だけでなく、ネット上の情報を検索して、もっともらしい日本語で答える。その言葉づかいが、普通の日本人とそう変わらない。

それを可能にしたのが、大規模言語モデル(LLM)である。おもしろいのは、それが記号接地問題という難問を解決したことだ。これは言葉に一義的な定義がなく、文脈によって異なる意味をどう解釈するかという問題だが、それをLLMは、意味を解釈しないという方法で回避したのだ。

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イエスは実在したのか

なぜキリスト教は世界を席巻できたのか (扶桑社新書)
12月25日はイエス・キリストの生まれた日ということになっているが、そんなことは聖書に書いてない。これは古代ローマの冬至の祭である。ただイエスという人物が実在したことは事実だと多くの人が信じているが、これも最近の研究ではあやしくなっている。

新約聖書を素直に読むと、最初の福音書にイエスの言行録があり、それにパウロ書簡が続くので、イエスの言葉を聞いた弟子の言い伝えをもとにパウロが手紙を書いたようにみえるが、実際の順序は逆である。

最初に書かれたのはパウロ書簡で、西暦50年以降と推定されているが、パウロはイエスの弟子ではなく、初期には教団を攻撃する側だった。書簡にもイエスの行動は「最後の晩餐」と処刑と復活しか書かれていない。これもパウロが見たわけではなく、旧約の預言の実現として書かれ、「十字架の神学」の論拠としてあげられている。

著者はブッダは実在しないと推定している。ゴータマ・シッダールタと呼ばれる王子が紀元前500年ごろいたことは事実だが、彼が「ブッダ」だったかどうかは確認できない。それは「目覚めた人」という意味の普通名詞で、1次史料でも複数形で出てくることがある。

イエスも当時のユダヤではありふれた名前で、福音書や口承(Q資料と呼ばれる)が複数の人物を合成した可能性もあるが、それは本質的な問題ではない。ユダヤ教の律法を超える普遍主義を信じる教団が古代ローマに生まれて迫害に生き残り、やがてローマ帝国の国教になったことが、キリスト教が世界宗教になる決定的な要因だった。

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池田信夫『平和の遺伝子』本日発売

私の新著『平和の遺伝子:日本を衰退させる「空気」の正体』が、白水社から本日発売された(Kindle版は3ヶ月以内に発行)。まえがきを紹介しておく。

平和の遺伝子:日本を衰退させる「空気」の正体1989年の大納会で日経平均株価が3万8915円をつけたとき、それが最高値になると思った人はほとんどいなかった。世界史上空前の高度成長を遂げ、自動車やテレビや半導体で世界を圧倒した日本の株価は、永遠に上昇するかのように思われた。唯一の心配は、その成功によってアメリカから攻撃されることだった。
 
それから35年たち、日経平均はようやくその高値を抜いたが、ニューヨーク・ダウ平均株価は同じ期間に17倍になった。私は人生の半分をバブル前、半分をバブル後に過ごしたことになるが、かつてあれほど成功した日本が、その後「失われた10年」といわれ、それが「失われた20年」になり、最近は「衰退途上国」といわれるようになったのはなぜか、いまだによくわからない。続きを読む


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