フランス革命についての省察

フランス革命についての省察 (光文社古典新訳文庫)
本書はフランス革命の最中に、それが流血の大惨事に陥って軍人の独裁に終わるだろうと予言した。実際にフランス革命はナポレオン皇帝の誕生で終わったが、当時エドマンド・バークは「革命に敵対する反動」として攻撃され、それ以来、保守主義の元祖とされるようになった。

しかし彼はイギリスの古典的自由主義の元祖でもある。それはルソーの『社会契約論』やマルクスの『資本論』のように人々を行動に駆り立てる思想ではなく、ほとんどの記述は同時進行の出来事に対する批判である。体系的な理論が展開されているわけでもないので、いま読むとわかりにくく、これが人気のない原因だろう。

バークの基本思想は「社会を合理主義で設計することは間違いのもとだ」というコモンローの精神である。これは同時代のヒュームやスミスと同じく、社会は漸進的に進化していくもので、人間が「設計」してもうまく行かないという経験論である。

それはフランス革命が人類に普遍的な「天賦人権」を根拠にしていたのに対し、天から与えられた人権などというものは存在しないと否定する。

国政に関して、各人がどれだけの権限、権威、あるいは発言力を持つべきかとなると、これは「人間の基本的権利」にかかわる事柄ではなく、「文明化された社会人」にかかわる事柄である。ならば、単なる人間と「文明化された社会人」の相違は何か? それは社会的慣習を受け入れたかどうかなのだ。

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なぜ私は保守主義者ではないのか

自由の条件III: 福祉国家における自由
本書はイギリスのサッチャー元首相が保守党大会で「これが私の信じているものだ」といって掲げて有名になった本だが、ハイエクは保守党を支持しなかった。彼は「福祉国家は社会主義の変種だ」と批判したが、貴族や大地主の既得権を守る保守党(Tory)も批判した。

彼はliberalという言葉は、大きな政府を求める人々に誤用されているので使わなかった。Libertarianという造語もきらい、old Whigと自称した。これは今はなくなった自由党のことで、ブルジョアジーの代表だった。

ホイッグはエドマンド・バークのように貴族の特権に反対し、フランス革命に反対する一方、アメリカ独立革命を支援した。本書の付録の「なぜ私は保守主義者ではないのか」という短い論文に、ハイエクはこう書いている。
過去数十年間の歴史は全般的に社会主義的な方向に向かっていたので、今は保守派も自由主義も主にその動きを遅らせようとしているように見えるかもしれない。しかし自由主義の重要な点は立ち止まることではなく、別の場所に行こうとすることである。

政府の行動のほとんどに関する限り、現状では自由主義が現状を保守したいと考える理由はほとんどない。実際、自由主義にとっては、世界のほとんどの地域でもっとも緊急に必要とされているのは、自由な成長に対する障害を徹底的に一掃することだと思われる。

この意味での自由主義は保守ではなく、自由な成長への障害を取り除くために国家の介入と闘う思想である。今の日本に必要なのは、いい意味でも悪い意味でも保守政党である自民党に対抗して、肥大化した福祉国家をスリム化する自由主義の政党ではないか。

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死の恐怖を克服する「賢者の石」はあるのか

自殺について (角川ソフィア文庫)
子供のころ、自分も死ぬのだということに気づいて、毎日おびえていたことがある。その恐怖を解決するために本書を読んだが、「死によって人は世界の本質的な「意志」に回帰する」というペシミズムによけい恐くなった。

死の恐怖は人間のもっとも強い感情だが、それが文献に出てくるのは意外に新しい。中世までの社会では、個人は共同体に埋め込まれていたので、人は死を自然に受け入れた。キリスト教では死後に永遠の生命が得られることになっているので、問題は死ではなく天国に行けるかどうかだった。

死が恐怖の対象になったのは、近代ヨーロッパで人々が神を失ってからだ。モンテーニュは死について考え続けて『エセー』を書き、パスカルは「無限の宇宙の永遠の沈黙が私をおののかせる」と書いた。

ヘーゲルは「絶対精神」によって人は神に同化し、永遠の生命を得ると論じたが、ショーペンハウエルはそれを否定するペシミズムを主張した。本書は彼の主著『意志と表象としての世界』の応用として自殺を考えたものだが、ここで彼は「死の恐怖を解決する賢者の石を手に入れた」と主張した。

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「大東亜共栄圏」はアジア諸国を解放したのか

大東亜共栄圏 帝国日本のアジア支配構想 (中公新書)
自衛隊の公式サイトが「大東亜戦争」という言葉を使ったことが問題になっているが、自衛隊では以前から使っていたようだ。これはGHQのプレスコードで禁止されただけで、占領はとっくに終わったのだから、GHQの指令を守る必要はない。

問題は「大東亜」という言葉に、独特のコノテーションがあることだ。これに「アジア侵略」という意味をもたせる人がいる一方、アジア諸国を欧米の植民地支配から解放したという人もいるが、どちらも正しくない。

この言葉を最初に使ったのは、1940年8月の松岡洋右外相の談話だが、当時はヨーロッパでドイツが破竹の快進撃を続けてフランスが占領され、イギリスが敗れるのも時間の問題だと思われていた。この情勢認識のもとに松岡は三国同盟を結び、世界を自給圏に分割しようとした。

これはブロック経済で、アメリカの「モンロー主義」は南北アメリカ大陸を一つの自給圏とする構想だった。それに対して日本は太平洋の西側を自給圏とし、ドイツを中心とするヨーロッパの自給圏と、それぞれの圏内の権益を相互承認する条約を結ぼうというのが松岡の構想だった。

ここではアジア諸国は、日本の支配下にある保護国であり、民族自決の原則は認めなかった。各国の民族独立運動と連携して旧宗主国を日本軍が追放したが、代わりに日本軍がその国に駐留した。各国は日本軍にとっては自給圏の階層秩序の一部だったが、彼らにとっては日本軍は完全独立をさまたげる存在だった。

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プラトンは「哲人政治」を理想としたのか

国家 上 (岩波文庫)
本書は英米圏の1000人の哲学者が選んだ西洋哲学の古典の第1位に選ばれた。これはそれほど意外な結果ではないが、最後まで読んだ人はほとんどいないだろう。

私も学生時代に読んだが、挫折した。古典の第2位に選ばれたカントの『純粋理性批判』は、いかにも哲学書という文体で論理的に書かれているが、本書はカジュアルな対話で話が進められ、どこまでがプラトンの思想かよくわからないからだ。

その中のソクラテスの話がプラトンの意見だと考えると、ポパーのようにプラトンは「哲人政治」という独裁制を理想とした全体主義者だということになるが、これは疑問である。むしろこの対話篇は一種の演劇であり、登場人物の話は問題を多面的に描くものだ、という林達夫やレオ・シュトラウスの見方に共感を覚える。

哲人政治は第5巻の最後(邦訳の上巻p.405以降)に出てくるだけで、系統的に論じられているわけではない。それを基礎づける論理として、有名な「洞窟の比喩」でイデア論が語られるが、これも比喩としては成り立っていない。人々がみんな洞窟の中にいて、哲学者だけが太陽を見ているという根拠はない。

だがそれに続いて出てくる民主制の批判は、具体的で説得力がある。民主制は必然的に衆愚政治になり、僭主(独裁)に行き着く。それを生み出すのは「雄蜂」のようにうるさく騒ぎ回り、人々を煽動するデマゴーグだ。そして僭主の独裁が成立すると、それは二度と元の民主制には戻らない。

つまり哲人政治論は、現実の(プラトンの生きていた時代の)アテネの民主制末期の混乱に対する皮肉だったのではないか。ポパーも批判するように哲人が誤ることはないというプラトンの無謬主義はおかしいが、同じことは民衆にもいえる。主権者たる国民はつねに正しいというのもフィクションである。

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川勝平太氏の「鎖国」論(アーカイブ記事)

日本文明と近代西洋―「鎖国」再考 (NHKブックス)
静岡県知事を辞任すると表明した川勝平太氏に批判が集まっているが、どさくさまぎれに彼の学問的業績まで否定するのは感心しない。彼の「海洋史観」には疑問があるが、専門分野だった江戸時代の経済史については、国際的な視野から「鎖国」を評価していて傾聴に値する。

ヨーロッパで資本主義が急速に発達した17~9世紀に、日本は鎖国の保護主義で世界から大きく遅れをとったといわれるが、自国の産業を関税などで保護する政策は、イギリスをはじめ世界中の国が行なった。日本が(一部の国を除いて)貿易の禁止という方法をとったことは特異だったが、それ自体は大きな損失になったわけではない。本書も指摘するように、当時のヨーロッパに日本に売り込む商品はなかった。

18世紀までヨーロッパは、アジアに対して貿易赤字だった。彼らがアジアから輸入した商品は、胡椒、香辛料、茶、砂糖、綿織物、タバコ、陶磁器など数多かったが、輸出したのは主として銀だった。つまり西洋諸国は新大陸で採掘した銀で、東洋から多くの商品を買ったのだ。逆に東洋人が買うものはほとんどなかった。
 
銀の流れをみても中国やインドは大幅な流入超で、イギリスは流出超だった。イギリスはインドから綿織物を輸入しており、自国産業をまもるためにその輸入を禁止したほどだ。だから日本がもし17世紀に開国していたとしても、西洋から輸入するより輸出するほうが多かっただろう。
 
むしろ鎖国の直接的な影響は、世界市場を席巻していたアジア製品への依存を断ち切ることだった。特に当時の国際商品だったインドの綿織物を輸入禁止して、国内で生産した。これは輸入品を国内産業で生産する輸入代替工業化であり、この点ではイギリスの綿工業も同じだった。彼らもインドからの輸入を遮断しているうちに、綿織物を自力で生産できるようになったのだ。違うのは、そこから先である。

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幕末化する日本

家康の誤算 「神君の仕組み」の創造と崩壊 (PHP新書)
今の閉塞感は幕末に似ている。日本は「長い江戸時代」の終わりにさしかかっているので、それにどう対応すべきかも幕末に学べるかもしれない。

江戸時代に250年も平和が続いたのは、世界史上でも珍しい偉業である。それはアジアの東端の島国という地政学的な有利性もあるが、徳川家康の巧みな制度設計も大きかった。全国を300の大名家に分断し、譜代の禄高は小さく、外様は大きくして勢力を均衡させ、大名の家族を江戸に人質に取り、参勤交代で財政を消耗させた。

このような制度は、18世紀に崩れてくる。跡継ぎのない大名を取りつぶす「改易」がほとんどなくなり、有力な外様大名が経済力をつけるようになった。薩摩藩は跡継ぎがなかったが、養子を取って家の継続が認められた。大名の家族を江戸に人質に取る制度も緩和されたため、家族が帰った長州藩が反乱を起こした。

Tenpo-tsuho-chokaku経済的には年貢を米による物納とし、現物経済を原則としたが、1835年につくった天保通宝の鋳造を各藩に許したことが失敗だった。これによって大名が貨幣を密造してインフレになり、贋金も流通して経済が混乱した。長州藩や薩摩藩はこの密造通貨で経済力をつけた。

しかし幕藩体制を崩壊させた最大の原因は、その長すぎた平和だった。

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社会保障という「生政治」の終わり

ミシェル・フーコー講義集成〈8〉生政治の誕生 (コレージュ・ド・フランス講義1978-79)
ミシェル・フーコーが西洋の権力の原型と考えたのは、カトリック教会のような司牧的権力だった。これは「司牧」としての聖職者が迷える羊のような民衆を導く権力だが、特定の社会の規範を根拠とするので、他の社会との交流が増えると拘束力がが弱まる。

特に西洋ではルター派がカトリック教会への服従を拒否し、自由な個人が信仰と法にもとづいて行動した。これは抽象的な権力と普遍的なルールで民衆を管理する技術であり、これをフーコーは統治性と呼んだ。

司牧的権力には臣民(subject)として隷属していた人々が、近代国家では自立した主体(subject)となり、統治の効率は飛躍的に高まった。中世には君主の命令によって<臣民>がいやいや行なっていた戦争が、戦意を内面化した<主体>によって進んで行なわれ、国民は武装歩兵として自発的に戦争に参加し、国家のために命を捧げたのだ。

このように近代国家は戦争にそなえる死の政治から始まったが、戦争が近代化するにつれて、軍事力の中核は兵士から補給に移り、軍事的な規律・訓練よりも富を増やす市場メカニズムが重要になった。このため国家は後景に退いて「夜警国家」となり、人々の生活を保障する生政治が有効になった。これが社会保障の始まりである。

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フリードマンの提案はなぜ実現しなかったのか

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)
来週から「小さな政府と自由主義」というテーマでアゴラ経済塾を始めるが、小さな政府は異端の思想である。それは経済学者には常識だが、それ以外の人には「新自由主義」とか「市場原理主義」などといってきらわれる。

もちろん市場経済で解決できない問題も多いが、解決できる問題はなるべく政府が介入しないで解決しようというのがフリードマンの自由主義(liberalism)である。本書が出たのは1962年だが、そこに掲げられた政策がいまだにほとんど実現していない。

彼が第2章の最後で「政府がやる理由のない制度」としてあげているのは14項目だが、このうち今も残っている制度を○、廃止された制度を×、修正された制度を△とすると、

 △農業の買い取り保証
 ○輸入関税・輸出制限
 △産出規制(生産割り当て)
 △家賃統制・賃金統制
 △法定の最低賃金や法定金利
 ○産業規制・銀行規制
 ○ラジオ・テレビ規制
 ○社会保障制度、特に老齢年金
 ○事業・職業免許制度
 ○公営住宅
 ×平時の徴兵制
 ○国立公園
 △民営の郵便事業の禁止
 ○公営の有料道路

このうち完全に実現したのは徴兵制の廃止だけだった。1勝8敗5引き分けである。その他に彼が本書で提案したのは次のような改革だが、このうち実現したものを○、しなかったものを×とすると、

 ○変動為替相場制度
 ×マネーサプライ増加率の固定
 △教育バウチャー
 △負の所得税

変動為替相場は大成功だったが、フリードマンの学説のコアだったk%ルール(通貨供給ルール)は実現しなかった。こっちは1勝1敗2引き分けだから、合計2勝9敗7引き分けだ。どうして彼の提案は実現しなかったのだろうか?続きを読む

ビスマルク型社会保障は国家社会主義の遺物

ビスマルク ドイツ帝国を築いた政治外交術 (中公新書)
日本の年金制度には「事業主負担」という奇妙な制度がある。サラリーマンの月額報酬に対する社会保険料率は約30%だが、それを「労使折半」ということにして企業が15%負担するのだ。この起源は19世紀にビスマルクのつくった社会保険法にある。

1850年代から始まった工業化によって各地で労使紛争が起こり、無産政党が合流して社会主義労働者党ができた。これはマルクス主義の路線をとり、帝国議会でも議席を得た。このためビスマルクは、皇帝暗殺未遂事件をきっかけに「社会主義者鎮圧法」を制定し、社会主義者を弾圧した。

その一方でビスマルクは社会主義に傾斜する労働者を懐柔するため、1883年から疾病保険法、労災保険法、老齢廃疾保険法を制定した。疾病保険法は企業に健康保険料の2/3を負担させ、70歳以上の労働者には年金支給を義務づけた。ビスマルクはこのうち労災保険法には国費の支出を考えていたが、負担を恐れる各州の反対で実現しなかった。

この原型はギルドの相互扶助システムだった。ギルドには同業者が金を出し合って親方の老後の面倒をみる「養老制度」があったが、ビスマルクはこれを国家が管理し、企業が労働者を丸抱えにして労使紛争を防ごうとしたのだ。これが年金・健康保険の原型だが、それは国家が企業を統制する国家社会主義だった。

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