啓蒙という言葉は多義的に使われる。広い意味では「科学」一般をさして使うこともあるが、本書はこのような濫用をいましめ、これを同時代の文脈に即して考える。啓蒙という訳語ではわかりにくいが、18世紀にフランスでディドロやダランベールなどが使い始めたlumièreは「光」という意味である。
啓蒙は無神論と結びつけられることが多いが、この場合の光はもともと神の啓示という意味で、キリスト教的な含意があった。それに対して過激な無神論をとなえた「ラディカル啓蒙」と呼ばれる一派があり、その教祖がスピノザだった。彼自身がこういう運動にかかわっていたわけではないが、神と自然を同一視する彼の汎神論は、唯物論と受け止められたのだ。
ドイツでは啓蒙はAufklärungと訳され、これも「明るくすること」という意味である。この言葉を広めたのはカントの『啓蒙とは何か』で、彼の定義は有名である。
ここでは人間が等しく理性をもっていることが前提とされているが、それはフランスの啓蒙ともヒュームの経験論とも違っていた。現代人が(肯定的にせよ否定的にせよ)語る啓蒙は、カント的なバイアスをもっているが、晩年のフーコーがのべたように啓蒙の本質は批判精神であり、それをカント的な理性主義に矮小化するのは間違いである。
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啓蒙は無神論と結びつけられることが多いが、この場合の光はもともと神の啓示という意味で、キリスト教的な含意があった。それに対して過激な無神論をとなえた「ラディカル啓蒙」と呼ばれる一派があり、その教祖がスピノザだった。彼自身がこういう運動にかかわっていたわけではないが、神と自然を同一視する彼の汎神論は、唯物論と受け止められたのだ。
ドイツでは啓蒙はAufklärungと訳され、これも「明るくすること」という意味である。この言葉を広めたのはカントの『啓蒙とは何か』で、彼の定義は有名である。
啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜け出ることである。[…]人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示をあおがないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからだ。
ここでは人間が等しく理性をもっていることが前提とされているが、それはフランスの啓蒙ともヒュームの経験論とも違っていた。現代人が(肯定的にせよ否定的にせよ)語る啓蒙は、カント的なバイアスをもっているが、晩年のフーコーがのべたように啓蒙の本質は批判精神であり、それをカント的な理性主義に矮小化するのは間違いである。
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