夫婦別姓反対から男系天皇に至るまで、自称保守の誇る「日本の伝統」は、賀茂真淵のいうますらをぶりである。これは儒学の男性中心の伝統であり、わが国の伝統ではない、と本居宣長は批判した。
真淵が依拠したのは日本書紀だったが、宣長の依拠したのは古事記だった。両者は同時期に書かれたが、大きな違いがある。日本書紀の基調は「日本」という国を中国や朝鮮半島などとの対比で描くナショナリズムだが、古事記には日本という国号さえ出てこないのだ。
宣長がそれに対置したのは、女性的なたをやめぶりだった。彼は古事記をやまとことばに翻訳した『古事記伝』によって、その深層にある古来の伝統は、中国から輸入した「からごころ」とはまったく違う「やまとごころ」だと指摘した。彼は日本という国号も拒否し、天皇が詔勅で使う「大八洲」という国号を使った。
ではやまとごころとは何か。これについて宣長は、有名な歌を詠んだ。
敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花
これは戦時中に「大和魂」の表現としてよく使われた歌だが、宣長の意図はその逆である。この「敷島」は日本の別称だから、前半は「日本の思想とは何か」という問いだが、それに対して彼は「朝日に匂ふ山桜花」という具体的な美を対応させている。
これが彼のもののあはれの思想を象徴する歌である。皇帝の権力を正統化する儒学が学問の本流だった中国とは違い、日本には世界の本質を探究する学問は生まれなかったが、知識人は膨大な和歌を詠んだ。古今和歌集に表現されているのは、世界を男女関係で語る関係主義である。
宣長はその感情をルネサンスの芸術家のように普遍的人間像として描かなかった。「あはれ」は日本独特のやまとことばに依存した感情であり、普遍的に共有される思想ではないと考えたからだ。それは朱子学のような論理で表現できないので、儒学者の議論は空論である。
たをやめぶりは、東洋では老荘思想や仏教の「縁起」の思想にも通じる普遍性をもつ。それは儒学のようなトップダウンの原理ではなく、中心のないボトムアップの原理であり、男性原理とは異なる女系家族の原理である。
それは戦争で死を管理する思想ではなく、平和の中で暇を持て余した貴族の思想である。その中心は「色好み」すなわちセックスである。現実には『源氏物語』のような奔放な肉体関係があったわけではないが、想像の中で男女がまじわり、それを歌に詠んだ。
このように国家という概念がなく、男女の人間関係から社会をみるのが、宣長の関係主義である。彼が古事記の解読で発見したのは、漢文の下に隠されているやまとことばの世界であり、それが「日本」より古くからわれわれの心に根ざしている「やまと」だった。
ではやまとごころを生み出したのは何か。宣長は国学を「皇国学」と呼び、その中心に神学すなわち「道の学問」を置いた。彼は古事記を歴史叙述と解釈し、この道は「天照大神の道にして、天皇の天下を知ろしめす道」(うひ山ぶみ)だと説いた。反本質主義の宣長も、最後は天皇という本質に回帰したのだ。
真淵が依拠したのは日本書紀だったが、宣長の依拠したのは古事記だった。両者は同時期に書かれたが、大きな違いがある。日本書紀の基調は「日本」という国を中国や朝鮮半島などとの対比で描くナショナリズムだが、古事記には日本という国号さえ出てこないのだ。
宣長がそれに対置したのは、女性的なたをやめぶりだった。彼は古事記をやまとことばに翻訳した『古事記伝』によって、その深層にある古来の伝統は、中国から輸入した「からごころ」とはまったく違う「やまとごころ」だと指摘した。彼は日本という国号も拒否し、天皇が詔勅で使う「大八洲」という国号を使った。
ではやまとごころとは何か。これについて宣長は、有名な歌を詠んだ。
敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花
これは戦時中に「大和魂」の表現としてよく使われた歌だが、宣長の意図はその逆である。この「敷島」は日本の別称だから、前半は「日本の思想とは何か」という問いだが、それに対して彼は「朝日に匂ふ山桜花」という具体的な美を対応させている。
これが彼のもののあはれの思想を象徴する歌である。皇帝の権力を正統化する儒学が学問の本流だった中国とは違い、日本には世界の本質を探究する学問は生まれなかったが、知識人は膨大な和歌を詠んだ。古今和歌集に表現されているのは、世界を男女関係で語る関係主義である。
「日本」から「やまと」へ
宣長の思想は、井筒俊彦の言葉でいうと反本質主義だった。日本には儒学の「天」のような超越的な本質はなく、やまとごころは山桜のように具体的なもので表わされる「具体的普遍」だった。古今序に「心に思ふ事をみる物きく物につけていひ出す」とあるは是也ありのままをいひてはいひつくされずあらはしがたき物のあはれも、さやうに見る物きくものにつけていへば、こよなく深き情もあらはれやすき物也。(石上私淑言)古今和歌集の序文に「心に思うことを物に仮託して表現する」というのが、もののあはれの精神である。ここでは物を抽象化してその本質を明らかにする儒学のアプローチではなく、逆に感情を具体的な現象として表現するアプローチがとられている。
宣長はその感情をルネサンスの芸術家のように普遍的人間像として描かなかった。「あはれ」は日本独特のやまとことばに依存した感情であり、普遍的に共有される思想ではないと考えたからだ。それは朱子学のような論理で表現できないので、儒学者の議論は空論である。
たをやめぶりは、東洋では老荘思想や仏教の「縁起」の思想にも通じる普遍性をもつ。それは儒学のようなトップダウンの原理ではなく、中心のないボトムアップの原理であり、男性原理とは異なる女系家族の原理である。
それは戦争で死を管理する思想ではなく、平和の中で暇を持て余した貴族の思想である。その中心は「色好み」すなわちセックスである。現実には『源氏物語』のような奔放な肉体関係があったわけではないが、想像の中で男女がまじわり、それを歌に詠んだ。
このように国家という概念がなく、男女の人間関係から社会をみるのが、宣長の関係主義である。彼が古事記の解読で発見したのは、漢文の下に隠されているやまとことばの世界であり、それが「日本」より古くからわれわれの心に根ざしている「やまと」だった。
ではやまとごころを生み出したのは何か。宣長は国学を「皇国学」と呼び、その中心に神学すなわち「道の学問」を置いた。彼は古事記を歴史叙述と解釈し、この道は「天照大神の道にして、天皇の天下を知ろしめす道」(うひ山ぶみ)だと説いた。反本質主義の宣長も、最後は天皇という本質に回帰したのだ。