荘子の哲学 (講談社学術文庫)現代思想を語るとき、プラトン以来の西洋哲学を否定する思想としてポストモダンを語る人が多いが、それは新しい思想ではない。プラトンの本質主義は特殊ヨーロッパ的な思想であり、世界全体では大乗仏教のように本質を否定する思想が多数派だった。

中国の老荘思想も、古代のポストモダン思想である。老荘と一括して語られるが、老子や荘子という個人が実在したかどうかは確認できない。『老子』や『荘子』というテキストはあるが、どちらも春秋戦国時代に複数の著者が書いたものを集めたと推定され、老子から荘子へという継承関係はない(荘子がやや先行するようだ)。

しかし老子と荘子の思想の違いははっきりしている。老子が孔子の皇帝を中心とする国家思想に対するアンチテーゼとして「無為自然」を提唱したのに対して、荘子は個人の存在や認識について「無」の思想を説いた。有名なのは「胡蝶の夢」というエピソードである。

荘周が夢を見て蝶となった。ヒラヒラと飛び、自ら楽しんで心ゆくものであった。荘周であるとはわからなかった。突然目覚めると、ハッとして荘周であった。荘周が夢を見て蝶となったのか、蝶が夢を見て荘周となったのかわからない。荘周と蝶とは必ず区別があるはずである。これを物化という。(『荘子』斉物論篇)

この物化という概念が荘子の思想の中核だ、と著者はいう。それはドゥルーズ=ガタリの語った「生成変化」のように本質的な実体をもたない。このような思想的アナーキズムは新しいものではないが、主流にはならなかった。中国でも科挙で国家権力と結びついたのは儒学だったが、老荘思想は仏教と結びついて民衆に広がった。

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