人生に意味を求め、その価値を<神>として絶対化するキリスト教は、世界の宗教の中では例外である。多くの宗教には多様な神が共存し、価値を相対化する思想がある。井筒俊彦はイスラム教の世界的な研究者だが、その中にも東洋的な多様性があるという。
本書の第一論文は、大乗仏教の完成された形態である華厳経をスーフィズム(イスラム神秘主義)とつなぐ大胆な試みである。それが成功しているのかどうか私にはわからないが、井筒以外には不可能な離れ業であることは間違いない。
ここで井筒は華厳経の事事無礙(あらゆる事象が互いに関連・融合し、障害なく自在に関わり合い調和する世界)がスーフィズムの哲学と本質的に同じだという。もちろん一神教のイスラムは、教義としては仏教とまったく違うが、その根底に同じ「東洋哲学」があるという。
そして両者に通底する哲学には、現代的な意義がある。それはニーチェ以降の西洋哲学が逢着した行き詰まりを――デリダの言葉でいうと――脱構築(井筒は「存在解体」と訳す)する可能性をもっているからだ。
スーフィズムにおいても、イブン・アラビーの思想では、すべての存在は神の異なる側面の顕現であり、それぞれが独立しながらも神の中で調和しているとする。彼の「ワフダトゥル・ウジュード(存在の一性)」の概念は、事象の個別性を認めながらも、それらが一つの根源(神)に帰するという思想を含んでおり、華厳経の「事事無礙」の思想と深く響き合う。
華厳経では、無数の異なる存在がありながら、それらが全て一つの普遍的な真理の顕現であるとされる。宇宙の多様な現象が、実は一つの根源的な真理に結びついているという考え方である。
スーフィズムもまた、「タウヒード(神の唯一性)」の概念を中心に据えながら、神の多様な顕現を認める。多くのスーフィー思想家は、物理的世界の多様性が神の無限の属性の表れであり、究極的にはすべてが神に帰一すると考える点で華厳経と一致する。
これは哲学の言葉でいうと、本質から現象が派生すると考えるプラトン以来の本質主義を否定し、多様な現象のネットワークの中に<理>があり、それが意識に投影されて物的な<事>になるというカント以降のドイツ観念論である。その極致がニーチェのニヒリズムであり、それをプラトンにさかのぼって否定したのがハイデガーやデリダだった。
<空>とは何も存在しないということではない。そこには何かが存在するが、それは名づけられず、構造をもたないカオスなのだ。コスモスはそこから人々が作り出す物語であり、その逆ではない。この思想は、ポストモダンの脱構築(deconstruction)に通じるという。これについてはデリダも井筒に手紙を出し、脱構築が東洋哲学にも通じる普遍的な概念だとのべている。
コスモスとアンチコスモスの対立は東洋哲学の中にもあり、儒教はコスモスの哲学だが、老荘思想はアンチコスモスである。大乗仏教ではナーガールジュナはカント的な二律背反を駆使するアンチコスモスの哲学だったが、老荘の<無>の思想と響き合って華厳経として完成された。
日本に輸入された華厳宗は国家の飾りだったが、民衆に広まったのは浄土宗のようなアンチコスモスの思想だった。それは日本の土着思想がアンチコスモスであり、世界の(枢軸時代以前の)ほとんどの文明圏も同じであることを示唆する。むしろユダヤ教系の一神教が特殊なのだ。それを最近の人類学も実証的に発見しているが、井筒の哲学はその先駆ともいえよう。
本書の第一論文は、大乗仏教の完成された形態である華厳経をスーフィズム(イスラム神秘主義)とつなぐ大胆な試みである。それが成功しているのかどうか私にはわからないが、井筒以外には不可能な離れ業であることは間違いない。
ここで井筒は華厳経の事事無礙(あらゆる事象が互いに関連・融合し、障害なく自在に関わり合い調和する世界)がスーフィズムの哲学と本質的に同じだという。もちろん一神教のイスラムは、教義としては仏教とまったく違うが、その根底に同じ「東洋哲学」があるという。
そして両者に通底する哲学には、現代的な意義がある。それはニーチェ以降の西洋哲学が逢着した行き詰まりを――デリダの言葉でいうと――脱構築(井筒は「存在解体」と訳す)する可能性をもっているからだ。
華厳経とスーフィズムに通じる「本質主義」批判
華厳経の「事事無礙」は、すべての存在が独立しながらも無限に相互作用し合い、対立や矛盾なく調和する世界観を示している。個々の事象が互いに制約を受けることなく、自由に共存し合うという発想である。スーフィズムにおいても、イブン・アラビーの思想では、すべての存在は神の異なる側面の顕現であり、それぞれが独立しながらも神の中で調和しているとする。彼の「ワフダトゥル・ウジュード(存在の一性)」の概念は、事象の個別性を認めながらも、それらが一つの根源(神)に帰するという思想を含んでおり、華厳経の「事事無礙」の思想と深く響き合う。
華厳経では、無数の異なる存在がありながら、それらが全て一つの普遍的な真理の顕現であるとされる。宇宙の多様な現象が、実は一つの根源的な真理に結びついているという考え方である。
スーフィズムもまた、「タウヒード(神の唯一性)」の概念を中心に据えながら、神の多様な顕現を認める。多くのスーフィー思想家は、物理的世界の多様性が神の無限の属性の表れであり、究極的にはすべてが神に帰一すると考える点で華厳経と一致する。
これは哲学の言葉でいうと、本質から現象が派生すると考えるプラトン以来の本質主義を否定し、多様な現象のネットワークの中に<理>があり、それが意識に投影されて物的な<事>になるというカント以降のドイツ観念論である。その極致がニーチェのニヒリズムであり、それをプラトンにさかのぼって否定したのがハイデガーやデリダだった。
東洋哲学に普遍的な「アンチコスモス」の思想
これらの共通点は、東洋思想とイスラーム神秘主義がそれぞれ異なる文化圏にありながら、共通の霊的な洞察を持つことを示している。表題となった論文では、ユダヤ教のような「コスモス」を構築する思想に対して東洋哲学を「アンチコスモス」の思想と考える。東洋哲学の――全部とは申しませんが――主流は、昔から伝統的にアンチコスモス的立場(存在解体論的立場)を取ってきました。すなわち「空」とか「無」とかいう根源的否定概念を存在世界そのものの構造の中に導入し、それをコスモスの原点に据えることによって、逆にコスモスを根底から破壊してしまおう、とそれはします。(「コスモスとアンチコスモス」p.254)
<空>とは何も存在しないということではない。そこには何かが存在するが、それは名づけられず、構造をもたないカオスなのだ。コスモスはそこから人々が作り出す物語であり、その逆ではない。この思想は、ポストモダンの脱構築(deconstruction)に通じるという。これについてはデリダも井筒に手紙を出し、脱構築が東洋哲学にも通じる普遍的な概念だとのべている。
コスモスとアンチコスモスの対立は東洋哲学の中にもあり、儒教はコスモスの哲学だが、老荘思想はアンチコスモスである。大乗仏教ではナーガールジュナはカント的な二律背反を駆使するアンチコスモスの哲学だったが、老荘の<無>の思想と響き合って華厳経として完成された。
日本に輸入された華厳宗は国家の飾りだったが、民衆に広まったのは浄土宗のようなアンチコスモスの思想だった。それは日本の土着思想がアンチコスモスであり、世界の(枢軸時代以前の)ほとんどの文明圏も同じであることを示唆する。むしろユダヤ教系の一神教が特殊なのだ。それを最近の人類学も実証的に発見しているが、井筒の哲学はその先駆ともいえよう。



