日本経済の死角 ――収奪的システムを解き明かす (ちくま新書)
実質賃金が上がらないのは日本経済の最大の問題の一つだが、その原因について定説はない。よくあるのは「労働生産性が低いからだ」という説明だが、著者も指摘するように日本の生産性(時間あたり実質GDP)上昇率はG7の平均程度で、それほど低いわけではない。

ところが実質賃金は1990年代からほとんど上がっていない。これは他の国では賃金が生産性とほぼパラレルに上がっているのと対照的な日本の特異性である。

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OECDデータ(BNPパリバ証券)

この原因は何かという問題も、多くのエコノミストが論じてきた。考えられる原因は
  • 労働分配率の低下
  • 円安による交易損失
  • 内部留保の増加
労働分配率はそれほど下がっていない。交易損失は大きいが、2010年代に限られる。著者が指摘するのは内部留保(利益剰余金)の増加である。

産業空洞化が格差を拡大した

1990年代に不良債権処理で銀行が債権を回収したため、中小企業が自衛策として手元現金を増やす傾向が強まった。しかし不良債権処理が一段落した2000年代後半になっても、内部留保が増えたのはなぜか。

その一つの要因は産業空洞化である。「内部留保」という法人企業統計の分類が誤解を招きやすいが、ここには海外直接投資(企業買収)による保有株式が含まれている。これは企業財務としては預金と同じ保有有価証券だが、その意味はまったく違う。預金はゼロ金利でリスクもないが、直接投資はリスクもリターンも大きい。全体として海外投資の収益率は低いが、これが2010年代に大きく増えたために国内の雇用が減った。

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もう一つの要因は、低賃金の非正規雇用が増えたことだが、これは2010年代に40%弱でピークアウトしている。それより大きな問題は、正社員の賃金が抑制(ベースアップに限定)されたことだ。これは「守りの経営」だけではなく、労働組合も非正社員との競争が激化して「同一労働同一賃金」などといわれたため、雇用を守るため非正規の競争的な水準以上の賃上げを要求しなくなった。

さらに1990年代に労働時間が週48時間から40時間に短縮され、2010年代に働き方改革でサービス残業が禁止されたため、日本企業の得意とする残業による労働力の調整がきかなくなり、労働時間はOECD平均程度になった。これが潜在成長率の低下に大きく影響している。

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「温情主義」が労働者を不幸にする

このような変化を著者はアセモグル=ロビンソンにならって収奪的システム(extractive system)と呼ぶが、これは途上国の独裁をさす言葉である。日本の格差の根本的な原因は正社員の過剰保護で、「就職氷河期世代」の非正規雇用の増加も、既存の正社員の雇用を守って新卒採用を絞ったために起こった。

著者は雇用の流動化で労働者の発言力が弱まると収奪的システムがひどくなって労働者が搾取されるというが、これは逆である。労働者の立場が弱いのは、労働市場が不完全で外部オプションが少ないからで、労働市場が流動化すれば、賃金の低い企業から労働者は出て行く。

一方で正社員の過剰雇用(賃金抑制)が続くと同時に、他方で3K職場で人手不足(低賃金)になるのは、労働市場のミスマッチが原因である。極論すると、大企業の中高年社員が解雇されて介護施設に行けば労働需給は均衡し、賃金と労働生産性は均等化する。

問題は経営者の収奪ではなく、むしろその温情主義で生産性の低い中高年ホワイトカラーを社内失業させ、賃金を抑制していることだ。内部留保も、業績が悪化しても雇用を維持する保険料のようなものだ。

これからAIが職場に導入されると、文系ホワイトカラーはほとんど社内失業し、賃金はさらに抑制されるだろう。これに対応するには少なくとも金銭解雇を解禁し、雇用のミスマッチを解消する必要がある。

全体としては日本経済のよくできたサーベイだが、収奪とか分断とか左翼用語が乱発されるのはよくない。格差の拡大した原因はアセモグルのいうような独裁者の収奪とはまったく違い、急速なIT技術革新によるスキル偏向的技術進歩(SBTC)とグローバリゼーションの当然の結果である。

アメリカは格差が極端に拡大したが成長を続けており、所得再分配が必要だ。それに対して日本では格差はそれほど拡大していないが、成長していないので貧困化している。必要なのは成長のための規制改革、特に雇用の流動化と社会保障の民営化である。