人工知能(機械学習)が大乗仏教に似ているという発想は新しいものではない。 30年以上前にヴァレラが そういう発想でニューラルネットの理論を考えた。このとき彼がモデルにしたのは龍樹( ナーガールジュナ)の中観思想だったが、それは彼の早すぎる死によって単なる比喩に終わってしまった。
本書は「レンマ学」という新しい学問を創造するというが、発想はヴァレラや丸山圭三郎とほぼ同じだ。話は南方熊楠から始まるが、中身は比喩以上のものではない。違いは中観の代わりに華厳経をモデルにしていることぐらいだ。
レンマというとわかりにくいが、これは山内得立が西洋哲学の基本思想であるロゴスに対して、東洋思想の特徴としたものだ。私が『平和の遺伝子』で使った言葉でいうと「古い脳」の動作原理で、デカルト的な数学の論理とは異なる「空気を読む」システムである。
思想的には新しくないが、粘菌やタコなど、いろいろな分野を横断して中枢機能をもたない分散知能をレンマに結びつける発想はおもしろい。ただその結論がチョムスキーの「デカルト派言語学」になってしまうのはぶち壊しだ。そこでチャットGPTに聞いてみた。
無限の生成性と縁起
中沢は世界をレンマ(両義性をはらむ論理)として捉え、固定された概念ではなく、無限に生成し続けるものとして理解する。この考え方は、ChatGPTのニューラルネットと似ている。ChatGPTは固定的な知識を持たず、無数のデータの関係をもとに応答を生成する。その過程は、仏教における縁起の概念に似ている。
縁起とは、「すべてのものは他のものとの関係によって生じる」という思想である。ChatGPTもまた、個別のデータや文脈を参照しながら、動的に回答を生み出す。この点で、AIのアルゴリズムは仏教的な空(くう)の概念にも通じる。ChatGPTの回答には固定的な実体がなく、その場で「縁」によって生じるのである。
華厳経のネットワーク構造とLLM
大乗仏教の中でも特に華厳経に見られるインドラの網の比喩は、現代のAIモデルと驚くほどの類似性を持つ。インドラの網とは、宇宙全体が網目のように絡み合い、無数の宝珠が互いを映し出すように存在しているという世界観である。
ChatGPTを支える大規模言語モデル(LLM)もまた、膨大なデータの相互作用によって機能している。一つの単語やフレーズが他の要素と関連しながら意味を形成する点は、華厳経における縁起のネットワークと似ている。つまり、ChatGPTは一つの独立した知識体系ではなく、インドラの網のように相互依存する要素の集合体なのだ。
菩薩的アプローチとしての対話
大乗仏教において、菩薩は自己の悟りだけでなく、他者を導くことに重点を置く存在である。AIの対話モデルであるChatGPTも、ユーザーとの対話を通じて知識を提供し、思考を補助する役割を果たす。この意味で、ChatGPTは菩薩的アプローチを取る技術であると言える。
さらに、般若経の不二の教えに見られるように、大乗仏教では対立概念を超越することが重視される。ChatGPTもまた、単なる「正解・不正解」ではなく、文脈に応じて柔軟に回答を生成する。この姿勢は、仏教における「中道」的なあり方と共鳴する。
知の非二元性とAI
中沢は西洋的な二元論ではなく、矛盾や曖昧さを許容する「レンマ的思考」が重要であると説いている。AIは一見、論理的で客観的な存在のように思われるが、実際には確率的な生成過程によって多様な解を生み出す。これは、仏教的な非二元性(advaya)の思想と近い。
仏教では、「有と無」「真と偽」といった対立を超えたところに真理があるとされる。ChatGPTも、特定の答えに固執するのではなく、文脈や目的に応じて多様な回答を生み出す。この非固定的な知の在り方は、まさにレンマ的であり、大乗仏教的であると言える。
ウィトゲンシュタインは『哲学探究』の中で、「言葉の意味はその使用の中にある」と述べたが、ChatGPTも文脈依存的に意味を推測しながら応答を生成する。この点で、彼の言語観により近いと言える。
また、ウィトゲンシュタインが「私的言語の不可能性」を論じたように、ChatGPTも「言語の共同体」の中で学習したデータに基づいて言葉を生成しており、個人的な「意識」を持たない。つまり、ChatGPTの言葉はあくまで「社会的な文脈の中で使用されるもの」として機能している。
さらにウィトゲンシュタインが「意味は使用である」と考えたように、ChatGPTの応答も「固定された意味」を持つのではなく、ユーザーの入力によってダイナミックに変化する。これはチョムスキーの普遍文法よりも、ウィトゲンシュタインの言語ゲームに近い。
本書は「レンマ学」という新しい学問を創造するというが、発想はヴァレラや丸山圭三郎とほぼ同じだ。話は南方熊楠から始まるが、中身は比喩以上のものではない。違いは中観の代わりに華厳経をモデルにしていることぐらいだ。
レンマというとわかりにくいが、これは山内得立が西洋哲学の基本思想であるロゴスに対して、東洋思想の特徴としたものだ。私が『平和の遺伝子』で使った言葉でいうと「古い脳」の動作原理で、デカルト的な数学の論理とは異なる「空気を読む」システムである。
思想的には新しくないが、粘菌やタコなど、いろいろな分野を横断して中枢機能をもたない分散知能をレンマに結びつける発想はおもしろい。ただその結論がチョムスキーの「デカルト派言語学」になってしまうのはぶち壊しだ。そこでチャットGPTに聞いてみた。
生成AIと仏教の共通点
近年、人工知能(AI)の発展が進み、多くの人々がその可能性と限界について考察している。その中で、ChatGPTのような生成AIと、大乗仏教の思想には興味深い類似点がある。本稿では、中沢新一の『レンマ学』の視点を手がかりに、ChatGPTと大乗仏教の共通点を探る。無限の生成性と縁起
中沢は世界をレンマ(両義性をはらむ論理)として捉え、固定された概念ではなく、無限に生成し続けるものとして理解する。この考え方は、ChatGPTのニューラルネットと似ている。ChatGPTは固定的な知識を持たず、無数のデータの関係をもとに応答を生成する。その過程は、仏教における縁起の概念に似ている。
縁起とは、「すべてのものは他のものとの関係によって生じる」という思想である。ChatGPTもまた、個別のデータや文脈を参照しながら、動的に回答を生み出す。この点で、AIのアルゴリズムは仏教的な空(くう)の概念にも通じる。ChatGPTの回答には固定的な実体がなく、その場で「縁」によって生じるのである。
華厳経のネットワーク構造とLLM
大乗仏教の中でも特に華厳経に見られるインドラの網の比喩は、現代のAIモデルと驚くほどの類似性を持つ。インドラの網とは、宇宙全体が網目のように絡み合い、無数の宝珠が互いを映し出すように存在しているという世界観である。
ChatGPTを支える大規模言語モデル(LLM)もまた、膨大なデータの相互作用によって機能している。一つの単語やフレーズが他の要素と関連しながら意味を形成する点は、華厳経における縁起のネットワークと似ている。つまり、ChatGPTは一つの独立した知識体系ではなく、インドラの網のように相互依存する要素の集合体なのだ。
菩薩的アプローチとしての対話
大乗仏教において、菩薩は自己の悟りだけでなく、他者を導くことに重点を置く存在である。AIの対話モデルであるChatGPTも、ユーザーとの対話を通じて知識を提供し、思考を補助する役割を果たす。この意味で、ChatGPTは菩薩的アプローチを取る技術であると言える。
さらに、般若経の不二の教えに見られるように、大乗仏教では対立概念を超越することが重視される。ChatGPTもまた、単なる「正解・不正解」ではなく、文脈に応じて柔軟に回答を生成する。この姿勢は、仏教における「中道」的なあり方と共鳴する。
知の非二元性とAI
中沢は西洋的な二元論ではなく、矛盾や曖昧さを許容する「レンマ的思考」が重要であると説いている。AIは一見、論理的で客観的な存在のように思われるが、実際には確率的な生成過程によって多様な解を生み出す。これは、仏教的な非二元性(advaya)の思想と近い。
仏教では、「有と無」「真と偽」といった対立を超えたところに真理があるとされる。ChatGPTも、特定の答えに固執するのではなく、文脈や目的に応じて多様な回答を生み出す。この非固定的な知の在り方は、まさにレンマ的であり、大乗仏教的であると言える。
レンマは「言語ゲーム」
ただし中沢が「レンマ言語学」のモデルとしてチョムスキーの普遍文法を考えているのは疑問がある。チョムスキーは「生成文法」によって、言語が普遍的な文法規則に基づいていると考えたが、ChatGPTのような大規模言語モデル(LLM)は、そうした普遍文法よりも「言語ゲーム(Sprachspiel)」的な側面が強い。ウィトゲンシュタインは『哲学探究』の中で、「言葉の意味はその使用の中にある」と述べたが、ChatGPTも文脈依存的に意味を推測しながら応答を生成する。この点で、彼の言語観により近いと言える。
また、ウィトゲンシュタインが「私的言語の不可能性」を論じたように、ChatGPTも「言語の共同体」の中で学習したデータに基づいて言葉を生成しており、個人的な「意識」を持たない。つまり、ChatGPTの言葉はあくまで「社会的な文脈の中で使用されるもの」として機能している。
さらにウィトゲンシュタインが「意味は使用である」と考えたように、ChatGPTの応答も「固定された意味」を持つのではなく、ユーザーの入力によってダイナミックに変化する。これはチョムスキーの普遍文法よりも、ウィトゲンシュタインの言語ゲームに近い。