私の年になると、最大の関心事は死である。どう老いてどう死ぬか。その準備を毎日考えている。仏教が日本で広く普及している(信じられているわけではない)のは、この問題に一応の答を出しているからだろう。
それは人生は無意味な「空」なので、生も死も大した問題ではないという死生観である。これをブッダは縁起と呼んだ。私が死ぬ原因は私が生きているからだ、というのが西洋的な因果関係だが、ブッダはこれを否定する。
私が死ぬという出来事は、私が生きていなければありえないので、死は私の生の条件である。人生はこのような無数の縁起(関係ネットワーク)の一つの結節点であり、そこには世界も自己も実在しない。
大乗仏教はこれを論理的につきつめ、中観派の龍樹(ナーガールジュナ)はほとんどウィトゲンシュタインの言語ゲームと同じ理論を展開した。これを著者は「啓蒙思想」だというが、それは逆である。啓蒙思想は理性の実在を信じたが、龍樹はそういう実在を否定し、カントと同じ「コペルニクス的転回」をおこなったのだ。
続きは12月23日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで(初月無料)
それは人生は無意味な「空」なので、生も死も大した問題ではないという死生観である。これをブッダは縁起と呼んだ。私が死ぬ原因は私が生きているからだ、というのが西洋的な因果関係だが、ブッダはこれを否定する。
私が死ぬという出来事は、私が生きていなければありえないので、死は私の生の条件である。人生はこのような無数の縁起(関係ネットワーク)の一つの結節点であり、そこには世界も自己も実在しない。
大乗仏教はこれを論理的につきつめ、中観派の龍樹(ナーガールジュナ)はほとんどウィトゲンシュタインの言語ゲームと同じ理論を展開した。これを著者は「啓蒙思想」だというが、それは逆である。啓蒙思想は理性の実在を信じたが、龍樹はそういう実在を否定し、カントと同じ「コペルニクス的転回」をおこなったのだ。
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