
それは人生は無意味な「空」なので、生も死も大した問題ではないという死生観である。これをブッダは縁起と呼んだ。私が死ぬ原因は私が生きているからだ、というのが西洋的な因果関係だが、ブッダはこれを否定する。
私が死ぬという出来事は、私が生きていなければありえないので、死は私の生の条件である。人生はこのような無数の縁起(関係ネットワーク)の一つの結節点であり、そこには世界も自己も実在しない。
大乗仏教はこれを論理的につきつめ、中観派の龍樹(ナーガールジュナ)はほとんどウィトゲンシュタインの言語ゲームと同じ理論を展開した。これを著者は「啓蒙思想」だというが、それは逆である。啓蒙思想は理性の実在を信じたが、龍樹はそういう実在を否定し、カントと同じ「コペルニクス的転回」をおこなったのだ。
大乗仏教から「脱啓蒙思想」へ
龍樹は『中論』でこう述べた:すでに生じたものが、今から生じることはない。これから生じるものは、現に生じてはいない。
現在は過去から未来にわたる縁起の中の一瞬であり、いつかは失われるものだ。同じようにすでに滅したものは二度と滅することはないので、死によって人は不滅になる。
これは現代の物理学の世界観と同じである。ニュートンの運動方程式にも現在という時間はなく、過去と未来の区別もない。現在を決めているのは世界ではなく、私の脳の記憶なのだ。
因果関係を否定し、世界は主観的なものだと述べたのはヒュームだが、カントはそれを体系化し、その後のドイツ観念論は、その1500年前の大乗仏教と似た展開をみせた。中観派がカントだったとすれば、それをさらに突き詰め、世界は幻だと論じた唯識派はショーペンハウエルやニーチェに近い。
このようなドイツ観念論を日本的に展開したのが、西田幾多郎や和辻哲郎である。特に著者は和辻を高く評価し、彼の「間柄」を原理とする倫理学は、マルクスの「社会的諸関係」やハイデガーの「世界内存在」などの概念を踏まえ、仏教の縁起の概念を現代社会に生かしたものだというが、この評価は仏教が啓蒙思想だという話とは矛盾している。
和辻は啓蒙思想のような科学主義や功利主義を批判し、大著『倫理学』で近代社会を超克する日本精神を追究した。戦時中には「現人神としての天皇は他の世界宗教よりも一段高い立場に立つ」と戦意昂揚の講演をしたが、戦後の『倫理学』ではそういう記述は削除された。
和辻は啓蒙的な合理性を超えて共同体を維持する「間柄」の原理として尊皇思想を想定した。このように理性を超える国家を理想化するのが、ナチスを支持したハイデガーとも共通する反啓蒙思想の落とし穴である。
啓蒙思想こそこのような全体主義をはらんでいる、という『啓蒙の弁証法』の指摘を勘案するなら、そのような啓蒙的理性を解毒する「脱啓蒙思想」として仏教の意味はあるのではないか。