入門 哲学としての仏教 (講談社現代新書 1988)
ほとんどの人にとって仏典は、葬式のとき読み上げる意味不明の漢文にすぎないが、その内容は合理主義である。少なくとも天上の神が地上の女と交わって子を産むといった荒唐無稽な話を信じる必要はない。本書はそれをあえて西洋哲学で解釈するもので、たぶん厳密には正しくないだろうが、現代人にはわかりやすい。

仏教はもともとバラモン教(ヴェーダ)から生まれた分派だが、その基本思想は「空」の哲学である。これはそれほど神秘的な思想ではなく、バラモン教の正統派が神(基体)を世界の本質と考える実在論であるのに対して、仏教は唯名論である。

仏教はスコラ神学のように超越的な神に対して現象があるとは考えず、世界には基体がなく現象(空)だけが存在すると考える。ソシュール的にいうと、シニフィアン(記号)だけがあってシニフィエ(意味)のない世界である。

このようなニヒリズムを論理的に突き詰めたのが中観派である。彼らは言葉の意味は他の言葉で定義されるトートロジーであり、その基体となる意味は存在しないと論じた。これは言語をその相互関係だけで考えるウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論と同じ発想である。

これは最近の人工知能の大規模言語モデル(LLM)に似ている。LLMでは単語の意味を考えないで、その次に出てくる単語を確率論的に予測し、日常言語に近い文字列をつくる。それによって人工知能の難問だった記号接地問題を回避し、言語ゲームを解くのだ。

大乗仏教は記号論を超えるか

中観とほぼ同じ時期の唯識の思想は、これを一歩進めた独我論に近い。これは西洋でいうと外界をすべて自己の意識に映じた幻想と考えるバークリの哲学に近いが、彼は聖職者で神という実体を信じていた。唯識は神も自己も否定し、アーラヤ識という自己を超える意識を考える。



これはフロイトの潜在意識よりユングの集合的無意識に近いが、そういう実体があるわけではない。これは仏教でいう縁起の考え方から出てくるもので、廣松渉のいう関係主義に近い。ここでは物が最初にあるのではなく、マッハのいうように世界は色や形や音などの感覚要素であり、それを人が物体として認識する。



こういう問題は古代ギリシャ哲学でも論じられたが、プラトンのイデア論はキリスト教の神の概念と統合され、超越的な本質を想定するスコラ神学ができた。その唯名論が無神論的な啓蒙思想となり、神を否定するニーチェにたどりついたと考えると、唯識はニーチェを1200年ぐらい先取りしていたことになる。



20世紀の記号論は、このように実体を否定して記号の意味を関係主義的に追究するものだが、ここでも世界を生み出すのは対象でも自己でもなく、対象をカテゴライズするアーラヤ識(集合的無意識)である。ウィトゲンシュタインはこれを「世界は物ではなく事である」と表現したが、その意味では大乗仏教は事的世界観である。



LLMはこの言語ゲームを徹底し、言葉の意味を否定するばかりでなく、それを処理する文法も否定し、インターネットの膨大なビッグデータの中から単語を組み合わせて文を生成する帰納主義である。



このように仮説なしに帰納だけで理論が生まれることはありえないというのがヒューム以来の近代哲学の常識で、それが人工知能が挫折する原因になったフレーム問題だが、LLMはこの難問を腕力で乗り超えようとしている。無限にフレームをつくって淘汰すればいいのだ。



LLMの場合には人間が仮説を与えるので自律的に思考するわけではないが、人間の神経も唯識のように対象や環境との相互作用の中で創発的に対象を認識するというのが、ヴァレラのオートポイエーシスである。西洋哲学は、大乗仏教に近づいているのかもしれない。