永田町では国民民主が連立に入るかどうかが注目されているが、政治の世界では1人の政治家の判断で国の運命が大きくわかれるバタフライ・エフェクトがしばしば起こる。本書はそういう運命の分かれ目をおさらいしたものだ。
- 首相を辞退した小沢一郎:1991年に海部内閣が崩壊したとき、経世会(竹下派)はその後任として会長代行だった小沢一郎を推す方針だった。金丸会長は小沢を説得したが、小沢は心臓の持病を理由に断った。このとき彼が受けていれば首相になったことは確実で、なぜ彼が断ったのかは今も不明である。
- 予想外の宮沢内閣解散:小沢のひきいる羽田派(改革フォーラム21)が自民党を離党するとは、1993年6月18日の午後まで誰も思っていなかった。梶山静六幹事長が、小沢に踏み絵を踏ませて羽田派を分裂させようと仕掛けたのだが、羽田派は34人全員が不信任案に賛成して不信任案は成立し、衆議院は解散された。
- 幻の「渡辺首相」1994年4月に細川内閣が総辞職したあと、小沢は渡辺美智雄を自民党から離党させて首相にしようと連立与党の各党に工作した。渡辺の返事を4月17日の正午まで待ったが、渡辺は電話してこなかったので、小沢は会談を中止し、出かけてしまった。渡辺は睡眠薬を飲み過ぎて寝坊したことがわかったが、中止した工作は元に戻せなかった。このとき渡辺が派閥を引き連れて離党していれば、連立与党は絶対多数になり、安定したはずだった。