国家 上 (岩波文庫)
本書は英米圏の1000人の哲学者が選んだ西洋哲学の古典の第1位に選ばれた。これはそれほど意外な結果ではないが、最後まで読んだ人はほとんどいないだろう。

私も学生時代に読んだが、挫折した。古典の第2位に選ばれたカントの『純粋理性批判』は、いかにも哲学書という文体で論理的に書かれているが、本書はカジュアルな対話で話が進められ、どこまでがプラトンの思想かよくわからないからだ。

その中のソクラテスの話がプラトンの意見だと考えると、ポパーのようにプラトンは「哲人政治」という独裁制を理想とした全体主義者だということになるが、これは疑問である。むしろこの対話篇は一種の演劇であり、登場人物の話は問題を多面的に描くものだ、という林達夫やレオ・シュトラウスの見方に共感を覚える。

哲人政治は第5巻の最後(邦訳の上巻p.405以降)に出てくるだけで、系統的に論じられているわけではない。それを基礎づける論理として、有名な「洞窟の比喩」でイデア論が語られるが、これも比喩としては成り立っていない。人々がみんな洞窟の中にいて、哲学者だけが太陽を見ているという根拠はない。

だがそれに続いて出てくる民主制の批判は、具体的で説得力がある。民主制は必然的に衆愚政治になり、僭主(独裁)に行き着く。それを生み出すのは「雄蜂」のようにうるさく騒ぎ回り、人々を煽動するデマゴーグだ。そして僭主の独裁が成立すると、それは二度と元の民主制には戻らない。

つまり哲人政治論は、現実の(プラトンの生きていた時代の)アテネの民主制末期の混乱に対する皮肉だったのではないか。ポパーも批判するように哲人が誤ることはないというプラトンの無謬主義はおかしいが、同じことは民衆にもいえる。主権者たる国民はつねに正しいというのもフィクションである。

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