今を生きる思想 ミシェル・フーコー 権力の言いなりにならない生き方 (講談社現代新書100)
ミシェル・フーコーが西洋の権力の原型と考えたのは、カトリック教会のような司牧権力だった。これは「司牧」としての聖職者が迷える羊のような民衆を導く権力だが、特定の社会の規範を根拠とするので、他の社会との交流が増えると拘束力がが弱まる。

特に西洋ではルター派がカトリック教会への服従を拒否し、自由な個人が信仰と法にもとづいて行動した。これは抽象的な権力と普遍的なルールで民衆を管理する技術であり、これをフーコーは統治性と呼んだ。

司牧的権力には臣民(subject)として隷属していた人々が、近代国家では自立した主体(subject)となり、統治の効率は飛躍的に高まった。中世には君主の命令によって<臣民>がいやいや行なっていた戦争が、戦意を内面化した<主体>によって進んで行なわれ、国民は武装歩兵として自発的に戦争に参加し、国家のために命を捧げたのだ。

このように近代国家は戦争にそなえる死の政治から始まったが、戦争が近代化するにつれて、軍事力の中核は兵士から補給に移り、軍事的な規律・訓練よりも富を増やす市場メカニズムが重要になった。このため国家は後景に退いて「夜警国家」となり、人々の生活を保障する生政治が有効になった。これが社会保障の始まりである。

福祉国家を否定する新自由主義

近代国家は歴史上もっとも「大きな政府」であり、その国民経済に占める比重はますます大きくなっているが、その中核にある管理装置は善意や道徳ではなく、内政(police)である。これは古代ギリシャのような「公共空間」ではなく民衆を規制する技術で、その目的は国力を増強して他国との軍事的均衡を守ることだ。その方法が市場経済である。

経済学は統治性を効率的に実現する技術であり、「ホモ・エコノミクス」の行動は彼が合理的に選択した結果だから、国家は責任を負わない。そこでは統治性は最大化されると同時に最小化され、人々の意識から隠されるが、それは「ミクロの権力」による相互監視を必要とするので、ハイエクが錯覚したような「自生的秩序」ではない。

ここでフーコーは権力がわかりやすい中央集権的な形で見えるとは限らず、それとは反対の自由主義という形をとる場合もあることを指摘している。この文脈で彼は、ハイエクの強調する法の支配を統治性のコアとみなす。それは専制君主が真理によって支配する統治から、形式的なゲームの規則の合理性にもとづく統治への転回だった。

フーコーが死去した1984年は、サッチャー・レーガン政権の「新自由主義」の時代だった。彼は新自由主義を「権力の所在を分散させて隠蔽するイデオロギー装置」として批判したが、それが「福祉国家」の司牧権力を否定したことを高く評価した。

そこにはポストモダンにも通じる超越的真理や特権的主体の否定がある。新自由主義は「遍在する統治、何もそこから逃れ去ることのないような統治」を実現し、全国民が国民を統治する生政治の終着点なのだ。