自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)
自由主義には、二つの系譜がある。エドマンド・バークのような古典的リベラルは、伝統的な自然法を尊重して人為的な人権思想を否定し、権利の根拠を慣習に求めた。これがイギリスのホイッグ党だが、最近では保守党に近い。

これに対してジョン・ロックに始まる自然権の思想は、人間は生まれながらに自由権や財産権などをもっていると考える革命思想で、フランス革命の人権宣言やアメリカの独立宣言に影響を与えた。これがリバタリアンである。

森村進氏は自分でもいうように日本でも数少ないリバタリアンで、本書はそれを法哲学の立場から解説したものだ。リベラルとリバタリアンの違いを図で示すと、次のようになる。

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この分類でいうと、日本には小さな政府を求める党はない。自民党は政治的にも経済的にも保守で「権威主義」に近い。野党は政治的には反自民だが、経済的には大きな政府の「日本的リベラル」だ。つまり日本にはリバタリアンは皆無である。

財産権は「自然権」か

アメリカでもLibertarian Partyはすきま政党で、ロン・ポールが大統領選挙に出たこともあるが、万年泡沫候補である。共和党にはリバタリアンを自称する議員もいるが、主流にはならない。ただアイン・ランドがグリーンスパンに影響を与えたように、エリートの一部には信者がいる。

リバタリアンが重視するのは財産権である。これが国家から個人を守る自由の根拠となるからだ。これを自然権として基礎づけるためにリバタリアンが依拠するのが自己所有権(self-ownership)だ。これは「自分の身体は自分のものだ」という権利で、これにもとづいて自分の所有するものを他人や国家が奪うことを拒否するのが財産権である。

しかし、財産権はどういう意味で「自然」なのだろうか。農作物の場合には、自分のつくった作物は自分のもので隣の畑の作物は隣人のものだ、というロックの労働価値説は自然だが、土地を考えると途端に不自然になる。地主の土地は彼のつくったものではないのに、なぜ彼はその財産権をもっているのだろうか。

逆に財産権がなくても、多くの文化圏では秩序が保たれている。たとえば江戸時代の日本には財産権はなかったが、村の中でどこまでが誰の土地かということはみんなが知っていた。むしろヘーゲルが『法哲学』でいったように、財産権が近代的自己の概念を形成したのだ。

ただ土地に排他的な所有権がないと、アンチコモンズをめぐる紛争が起こるので、土地については既得権を認めることに合理性がある。しかし著作権や特許権はどうだろうか。

森村氏は「特許権や著作権は自然権ではなく、むしろ他人の表現を禁止する自由権の侵害だ」と論じているが、ほとんどの国民にはこういう議論は知られていないので、情報も「財産」として守るのが当然だ、という近代社会の規範がこうした知的独占の正当化に利用される傾向が強い。

それに対してヒューム以降の古典的自由主義では、伝統的な慣習を自然法と考え、人類に普遍的な自然権を否定する思想がが英米の自由主義となった。この基礎にはロックの経験論的な哲学があったが、彼は財産権だけは経験を超える絶対的な権利と考えた。それをリバタリアンの特徴とするのは、著者独特の分類である。