純粋理性批判 1 (光文社古典新訳文庫)
今年はカントの生誕300年だが、彼以降の近代哲学はすべて観念論である。カントはプラトン以来の「形而上学」を批判し、意識から独立の実在を否定したが、これはほとんどの人の直感には合わない。

私の目の前にあるコーヒーカップは、私が目をつむっても存在するはずだ。私がその存在を否定しても、それを倒したらコーヒーはこぼれる。それを疑う哲学者は、頭がおかしいのではないか――レーニンは『唯物論と経験批判論』で、このような「ブルジョア観念論」を罵倒した。

これは誤解である。カントは人間の外側の「物自体」の存在は認めたが、主観を超える先験的な本質が実在する根拠はないと論じたのだ。太陽の存在は認めても、それがあすも東から昇るという本質は帰納できない。それは主観的な経験則にすぎないからだ。

しかし現実には天体の運動は確率100%で帰納でき、宇宙の隅から隅まで同じ法則が成立している。それはなぜだろうか。カントはそれを先験的カテゴリーという概念で説明したが、これは先験的な本質を先験的カテゴリーに置き換えただけである。

最近の思弁的実在論はこの謎にあらためて取り組んだが、結局カントの袋小路に入ってしまった。宇宙の均質性は人間原理で説明するしかない。それはメイヤスーも批判するようにトートロジーだが、彼の実在論もトートロジーである。カントの取り組んだ謎は、いまだに解けていないのだ。

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