近代世界システムの特徴は、他の世界を戦争で征服するのではなく、ヨーロッパ世界に包摂(incorporate)することである。どんな政治システムも固有の宗教を土台にしていたために普遍化できなかったが、資本主義はすべての価値を商品化し、近代科学はすべての事実を数値化して、世界=経済に包摂した。
その完成が戦後のグローバル資本主義だったが、冷戦後、中国が世界市場に参加したことで、その秩序は変わり始めた。近代世界システムの外側にいた中国やインドや発展途上国が世界市場に参加し、主権国家を超える<帝国>が世界を支配するようになったのだ。
かつて国家は、国内産業の経済活動を<インターナショナル>に仲介する役割を果たしたが、今日では企業も個人も情報ネットワークによって直接<グローバル>につながっており、国家にも、その集合体としての国際機関にも最終的な支配権はない。
しかし<帝国>とは、具体的に何だろうか。それは2000年に出版された本書には書かれていないが、今ではその正体は明らかだ。GAFAMなどと呼ばれる情報プラットフォームである。あなたはグーグルやマイクロソフトなしでは、1日も暮らすことはできない。その支配は世界の隅々に及び、あなたの個人情報を支配している。GAFAMはグローバルな世界の神になろうとしているのだ。
ネグリ=ハートはグローバルな市民権を主張する。移動の自由が基本的人権であるなら、なぜ国境を超える移民は査証がないと許されないのか? 1日1ドル以下の収入しかない絶対的貧困層は全世界で10億人以上いるが、途上国に開発援助をしなくても、彼らが日本に入国するのを認めさえすればいいのではないか?
もちろん現実にはそんなことは不可能だが、近代の人権なる概念がそういうダブル・スタンダードをはらんでいることは知っておいたほうがいい。主権国家とは、組織的な偽善なのだ。
ネグリやデリダが、こうした偽善を批判する概念として提起したのが、歓待(hospitality)の倫理である。「格差社会」を糾弾する人々は、絶対的貧困層が難民として日本にやってきたら彼らを歓待するだろうか。
資本主義は、排除によって利潤を維持するシステムである。その根本原理である財産権は、物を排他的に支配し、他人を排除する権利だ。マルクスが社民党の「平等な分配」という考え方を強く批判したのも、来るべき「自由の国」では資源の稀少性がなくなるので、財産権を否定してすべての人を歓待すればいいと考えたからだ。
しかし稀少性はなくならないので、資本主義はつねに外部を排除して格差を作り出し、利潤を作り出す必要がある。ウォーラーステインもいうように、周辺国との格差を再生産して中核国の利潤を維持するのが世界システムである。この意味で資本主義と近代国家は最初から一体だったが、今やグローバル企業と国家の対立が顕在化している。
アメリカ人がインターネットを開発したのは偶然ではない。その不特定多数を受け入れる歓待の精神は、国境を超えるキリスト教の普遍主義なのだ。それを国家の論理にあわせるために知的財産権というフィクションがつくられたが、インターネットはそれを裏切る。いま起こっているのは、主権国家とグローバルな情報プラットフォームの闘いである。
その完成が戦後のグローバル資本主義だったが、冷戦後、中国が世界市場に参加したことで、その秩序は変わり始めた。近代世界システムの外側にいた中国やインドや発展途上国が世界市場に参加し、主権国家を超える<帝国>が世界を支配するようになったのだ。
かつて国家は、国内産業の経済活動を<インターナショナル>に仲介する役割を果たしたが、今日では企業も個人も情報ネットワークによって直接<グローバル>につながっており、国家にも、その集合体としての国際機関にも最終的な支配権はない。
しかし<帝国>とは、具体的に何だろうか。それは2000年に出版された本書には書かれていないが、今ではその正体は明らかだ。GAFAMなどと呼ばれる情報プラットフォームである。あなたはグーグルやマイクロソフトなしでは、1日も暮らすことはできない。その支配は世界の隅々に及び、あなたの個人情報を支配している。GAFAMはグローバルな世界の神になろうとしているのだ。
主権国家とグローバルな情報プラットフォームの戦い
冷戦終了後には東欧からの移民の受け入れが民主主義国の義務と考えられ、それが低賃金労働を供給して経済成長に結びつくと思われていた。「多文化の共生」は世界的なリベラル派のスローガンだが、その主張をもっともラディカルに述べたのが本書である。ネグリ=ハートはグローバルな市民権を主張する。移動の自由が基本的人権であるなら、なぜ国境を超える移民は査証がないと許されないのか? 1日1ドル以下の収入しかない絶対的貧困層は全世界で10億人以上いるが、途上国に開発援助をしなくても、彼らが日本に入国するのを認めさえすればいいのではないか?
もちろん現実にはそんなことは不可能だが、近代の人権なる概念がそういうダブル・スタンダードをはらんでいることは知っておいたほうがいい。主権国家とは、組織的な偽善なのだ。
ネグリやデリダが、こうした偽善を批判する概念として提起したのが、歓待(hospitality)の倫理である。「格差社会」を糾弾する人々は、絶対的貧困層が難民として日本にやってきたら彼らを歓待するだろうか。
資本主義は、排除によって利潤を維持するシステムである。その根本原理である財産権は、物を排他的に支配し、他人を排除する権利だ。マルクスが社民党の「平等な分配」という考え方を強く批判したのも、来るべき「自由の国」では資源の稀少性がなくなるので、財産権を否定してすべての人を歓待すればいいと考えたからだ。
しかし稀少性はなくならないので、資本主義はつねに外部を排除して格差を作り出し、利潤を作り出す必要がある。ウォーラーステインもいうように、周辺国との格差を再生産して中核国の利潤を維持するのが世界システムである。この意味で資本主義と近代国家は最初から一体だったが、今やグローバル企業と国家の対立が顕在化している。
アメリカ人がインターネットを開発したのは偶然ではない。その不特定多数を受け入れる歓待の精神は、国境を超えるキリスト教の普遍主義なのだ。それを国家の論理にあわせるために知的財産権というフィクションがつくられたが、インターネットはそれを裏切る。いま起こっているのは、主権国家とグローバルな情報プラットフォームの闘いである。


