江戸城にはなぜ天守閣がないのか、という問いの答は簡単である。1657年の明暦の大火で天守閣が焼失したあと、幕府でその対策を指揮した保科正之が天守閣を再建しなかったからだ。その最大の原因は財政難だったが、もっと重要な原因は「徳川の平和」が確立したことだろう。
16世紀までの日本は、各地の大名が分割支配する連邦国家だったので、その領主は大きな城と高い天守閣をつくった。天守閣そのものは単なる展望台で、戦争の役には立たなかったが、その威容が大名の権力と資金力を示した。徳川家は最大の大名だったので、江戸城も大坂城を上回る日本一の高さで、将軍が代替わりするごとに建て替えた。
しかし明暦年間には島原の乱や由比正雪の乱も終わり、徳川家に対抗できる大名はいなくなった。むしろ都市機能が江戸に集中し、江戸城内に全国の大名の江戸屋敷が密集したことが、明暦の大火で10万人もの死者が出た原因だと保科は考えた。彼は城内から大名屋敷を移転させ、過密になっていた江戸の道路を拡幅し、江戸を再開発したのだ。
江戸城は、ヨーロッパ型の主権国家とはまったく違う「国のかたち」を示している。都市国家の戦争の中で強い国が弱い国を併合し、絶対君主が巨大な城郭で権力を誇示するのではなく、徳川家は多くの大名の(バタイユ的にいうと)無頭の合議体で平和を維持した。江戸城はその無頭性を象徴している。
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