最後の防衛線 危機と日本銀行
中国経済が「日本化」しているといわれるが、日本の1990年代のバブル崩壊とは何だったのだろうか。それをリアルタイムで経験した私の世代が退場する今、その経験を語り伝える意味はあるだろう。その特徴は、バブルは2度崩壊するということだ。

最初は1990年初めからの株価下落だが、当時は誰もそれがバブル崩壊とは思わなかった。「バブル」という言葉が新聞に出てくるのは91年からで、バブルの象徴として有名なジュリアナ東京が開業したのは91年5月である。景気があやしくなったころ、よく使われた言葉が不良債権だが、それは「借金のこげつき」ぐらいの意味で、誰も銀行が債務超過になっているとは思わなかった。

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ジュリアナ東京

それが金融危機として表面化した第2のバブル崩壊が、著者が日銀の信用機構課長になった1997年である。11月3日に三洋証券が会社更生法を申請したことは大した事件ではなかったが、その結果コール市場で三洋証券がデフォルトになった。これで短期資金の市場が凍りつき、銀行がインターバンク市場に出していた資金を引き上げた。

これが拓銀や山一証券の破綻につながったのだが、そこには日銀の誤算があった。金融行政の常識では、特別な救済措置を必要とするのは、債権者(預金者)が非常に多い預金取扱金融機関だけで、証券会社は会社更生法で破綻処理するのが当然と考えられていた。顧客の株式は証券会社が保管しているので、全額返還できる。債権者は法人だけなので、破産管財人が債権者会議で債務整理すればいい。

ところが証券会社のインターバンク市場への影響が予想外に大きいことがわかったので、山一は会社更生法ではなく、11月24日に自主廃業という形をとった。これが「四大証券の一角が消滅する」というショックとなって、一挙に金融収縮が拡大したのだ。なぜこんな前代未聞の形をとったのか。

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