日本がなぜ対米戦争に突入したのかという問題は、毎年この季節になると話題になるが、決定的な答はない。誰が最終的に決めたのか、よくわからないからだ。
もちろん昭和天皇の詔書がなければ開戦できなかったので、形式的な責任は天皇にあるが、実質的な決定をおこなったのは内閣(東條英機首相)である。しかし東條は、できれば開戦を避けたいと考えていた。陸軍省の軍務局長だった武藤章も、対米交渉で妥協しようとしていた。
では誰が日米開戦を決定したのか。本書の見立てでは参謀本部の田中新一作戦部長だが、これは奇妙な話である。参謀本部は戦争の作戦を立てる部局であり、開戦の意思決定をする権限も、それを実行する機能もなかった。大本営も開戦の方向でまとまっていたわけではなく、交渉継続派と開戦派に二分されていた。
そのバランスを崩したのは、1941年11月26日に出されたハル・ノートだった。慎重派だった武藤も、これを「交渉打ち切りの通告」と考え、参謀本部の説得をあきらめた。しかし参謀本部は、どうやってアメリカに勝とうと考えたのだろうか。
続きは8月7日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで(初月無料)
もちろん昭和天皇の詔書がなければ開戦できなかったので、形式的な責任は天皇にあるが、実質的な決定をおこなったのは内閣(東條英機首相)である。しかし東條は、できれば開戦を避けたいと考えていた。陸軍省の軍務局長だった武藤章も、対米交渉で妥協しようとしていた。
では誰が日米開戦を決定したのか。本書の見立てでは参謀本部の田中新一作戦部長だが、これは奇妙な話である。参謀本部は戦争の作戦を立てる部局であり、開戦の意思決定をする権限も、それを実行する機能もなかった。大本営も開戦の方向でまとまっていたわけではなく、交渉継続派と開戦派に二分されていた。
そのバランスを崩したのは、1941年11月26日に出されたハル・ノートだった。慎重派だった武藤も、これを「交渉打ち切りの通告」と考え、参謀本部の説得をあきらめた。しかし参謀本部は、どうやってアメリカに勝とうと考えたのだろうか。
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