
しかし東條英機首相は開戦を避けたいと考え、陸軍省の武藤章軍務局長も対米交渉で妥協しようとしていた。日米の戦力の差が10倍近いことを国民は知らなかったが、軍幹部は知っていたからだ。では誰が日米開戦を決定したのか。
本書の見立てでは参謀本部の田中新一作戦部長だが、これは奇妙な話である。参謀本部は戦争の作戦を立てる部局であり、開戦の権限も軍事力もなかった。武藤が承認しないかぎり開戦は不可能だった。
大本営も交渉継続派と開戦派に二分されていたが、そのバランスを崩したのは、1941年11月26日に出されたハル・ノートだった。慎重派だった武藤も、これを「交渉打ち切りの通告」と考え、参謀本部の説得をあきらめた。
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