ローザの子供たち、あるいは資本主義の不可能性: 世界システムの思想史
不況の原因が有効需要の不足だという理論をケインズの『一般理論』より早く述べたのは、ポーランドのミハイル・カレツキだったが、彼は自分の発想は(同じくポーランド出身の)ローザ・ルクセンブルクから得たものだと書いている。

ローザの大著『資本蓄積論』のコアになっている再生産表式は計算ミスが多く混乱しているが、その本質的な洞察は今も有効である。資本主義は植民地から略奪した富を蓄積する本源的蓄積で生まれ、拡大してきたという歴史観は、ウォーラーステインの世界システム論の先駆でもある。

帝国主義は19世紀に始まった現象ではなく、資本主義は16世紀から暴力と戦争で世界を支配してきた。それは新古典派的にいうと先進国と新興国の国際分業だが、新興国の安い労働力で生産した商品を先進国で高く売って鞘を取る不等価交換である。それはロシアや中国の脱線で70年ぐらい止まったが、冷戦終了後の1990年代に再開した。

これはトロツキーの永続革命に似た資本主義の永続革命である。ローザもトロツキーも、ロシアのような周辺国で社会主義革命が維持できるとは思っていなかった。資本主義が全世界の鞘を取り尽くした先に経済的な熱死状態が生まれ、それを国境を超えた労働者が乗っ取ることで世界革命は実現するのだ。

帝国主義は国境を超える

アジアの低賃金労働を使った海外生産で日本経済は空洞化し、日本の賃金(単位労働コスト)はアジアに近づく。欧州にはアラブの移民が流入し、単純労働者の職を奪う。このグローバルな資本蓄積は、全世界が一体になってレントが消失するまで続く。それは遠い先のことだが、先進国ではレントが失われ、ゼロ成長になり、ついにはマイナス金利が生じる。

世界革命が実現する日は遠くないとローザもトロツキーも考えたが、『資本蓄積論』から100年以上たった今も、世界は熱死状態からはるかに遠い。それは本書のいうように「資本主義の不可能性」を示すものではなく、むしろミラノヴィッチのいうように、グローバルな経済システムとしては資本主義しかないことを示しているのだ。

カレツキは1933年に『一般理論』とほぼ同じ理論をポーランド語で発表したが、それが発見されたのはケインズの後だった。しかしカレツキの理論は数学的に整理して書かれているので、ケインズよりずっとわかりやすく、新古典派との違いが明確だ。彼は現代の社会では、需要と供給の調整は価格ではなく数量調整で行なわれると考えた。

不況になって需要が不足した場合、新古典派経済学では価格が下がって供給が減ることになっているが、現実の経済では生産が縮小され、在庫が積み上がる。このとき労働が超過供給になっても名目賃金は下げられないため、失業が増えるので、政府が需要を追加する財政政策で雇用を創出する必要がある、という有効需要の理論が、固定価格経済という想定から明快に導かれる。

ローザはマルクスの再生産表式(固定価格モデル)を使って、資本蓄積が過剰になると過少消費が起こり、帝国主義戦争が起こると論じた。カレツキの理論は、それを新古典的なモデルに書き直したものだが、それはカレツキも認めるように短期の理論でしかありえない。

資本過剰が植民地戦争を生み出す

価格調整の行なわれる長期については、ローザは資本過剰を解消するために資本家が新たな市場と資源を求めて戦争を起こすと考えた。それは第1次大戦の時代にはリアリティがあり、大恐慌を解決するためにヒトラーやルーズベルトが戦争を起こす未来を予言する理論だった。

国際資本移動による資本のグローバリゼーションは、1990年代からコンピュータ・ネットワークの発達によって拡大し、海外生産だけでなく、タックスヘイブンなどの地下経済の拡大を生んだ。いま日本で出ているマイナンバーやインボイスに反対する運動は、それを国内で実現しようとするものだ。

次の段階は人のグローバリゼーションである。資本主義にとっては国内で生産するのも海外で生産するのも同じだから、移民なんて必要ない。労働力は貿易でいくらでも輸入できるからだ。しかし国家にとっては国内の雇用が失われることは政治的に危険だ。ローザも予言したようにグローバル資本主義は国家を超える存在であり、それをコントロールすることはむずかしい。

では本書のいうように、このグローバルな「略奪による蓄積」を拒否して「共有社会」をめざすべきだろうか。残念ながらそんなビジョンに未来はない。今の最大のリスクは(ミラノヴィッチの言葉でいうと)中国のような政治的資本主義が西欧型のリベラル能力資本主義に勝ち、グローバリゼーションが逆転することだ。これからは資本主義と社会主義の戦いではなく、資本主義と資本主義の戦いの時代なのだ。