日銀の植田総裁の初の講演がちょっとおもしろい。特にそのスライドが明快で、彼が何を考えているかがわかる。

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図1

注目すべきなのは、彼がフィリップス曲線で考えていることだ。これは昔の右下がりの曲線ではなく、横軸に需給ギャップ(正確にはGDPギャップ)をとり、縦軸にインフレ率をとっている。昔は横軸が失業率で、右下がりの曲線になっていたが、ここでは右上がりになっている。

これは単に軸を反転しただけではなく、インフレ率を需給ギャップの関数と考え、その上方シフトとして予想インフレ率を考えている。これはニューケインジアン・フィリップス曲線(NKPC)と呼ばれる新しい考え方である。

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図2

これでみると黒田総裁以降の2013~19年には、予想インフレ率が2000年代よりやや上方にシフトしたが、ほとんど変わっていないのに対して、コロナ拡大後の2020年以降は、大きく上方シフトしている。これはコロナ対策で大量のマネタリーベースを供給し、それが市場に循環し始めたものと考えられる。

インフレ予想の定着を「待つコスト」は小さい

これは白川元総裁の分類でいうと、植田氏がリフレ派ではなく期待派であることを示している。これは主流派の理論で、t期の物価上昇率Ptは次のようになる:

 Pt=αPet+1+βYt

ここでα、βは定数、Pet+1はt+1期の予想インフレ率である。Ytはt期のGDPギャップで、これが植田総裁の図の横軸に対応する。彼がこういう枠組で考えているとすると、昨今の状況の変化にどう対応するかも予想できる。

彼が図1の左のように現状を予想インフレ率の上方シフトと考えているとすれば、現状はインフレ目標で想定している2%のインフレ率を一時的には超えているが、そのうち2%の定常状態に戻るとも考えられる。

他方これが図1の右のような一時的な供給ショックだとすれば、放置しておけば2019年までの均衡に戻り、インフレにはならない。植田氏は、どちらを想定しているのだろうか。講演では

拙速な政策転換を行うことで、ようやくみえてきた2%達成の「芽」を摘んでしまうことになった場合のコストはきわめて大きいと考えられます。逆方向の、政策転換が遅れて2%を超える物価上昇率が持続してしまうリスクもありますが、こうした2%の定着を十分に見極めるまで基調的なインフレ率の上昇を「待つことのコスト」は、前者に比べれば大きくないと思われます。

ここで重要な問題は、Peがどう形成されるのかということだ。これはNKPCではforward-lookingなインフレ予想(無限の将来にわたる価格変動の割引現在価値)で決まるが、誰もそんなものは知らない。

したがって「日銀総裁が2%になるといえばみんなそう予想するはずだ」というのが黒田氏の発想だったが、これは見事に失敗した。これについて植田氏は『ゼロ金利との闘い』で、予想はbackwardに行われると考えた。

これは「今までデフレだったのだから明日もデフレだろう」と考えるので、インフレになると「もっとインフレになる」と考えて均衡から大きく逸脱し、ハイパーインフレになる可能性もあるが、その確率は小さいと植田氏は考えているようだ。

しかし現在の4%というコアCPI上昇率は、かなり危険水位である。少なくともYCCという変則的な政策はやめるべきだという声も強い。それは植田氏も十分知っているが、今は上方シフトに賭けているのだろう。