「院政」は日本独自の制度である。社長が引退したあと「顧問」などの役職で実質的な権限をもつ慣習も、他の国にはみられない。これは歴史的にも重要な意味をもつ。
教科書には、日本の中世は1192年の鎌倉幕府から始まり、公家による支配から武士による支配に移行したと書かれているが、最近の歴史学では、1086年に白河上皇が院政をしいたときが、中世の始まりとされることが多い。
7世紀末に唐から輸入された律令制は公地公民を原則としたが、それと並行して荘園が生まれた。荘園領主の力が強まった10世紀には律令制が崩壊し、国家財政が破綻したので、後三条天皇は1069年に荘園整理令を出し、文書に根拠のない荘園を没収した。これによって逆に文書に根拠のある荘園は公認された。
このとき多くの領主が国の課税をまぬがれるために上皇に荘園を寄進したので、建て前では全国が天皇の公領だが、荘園は上皇や公家の領地(院領)という荘園・公領制が生まれた。このように公式の「国」による支配と非公式の「家」による支配が併存する二重構造は、その後も1467年の応仁の乱まで続く。
続きは4月3日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで(初月無料)
教科書には、日本の中世は1192年の鎌倉幕府から始まり、公家による支配から武士による支配に移行したと書かれているが、最近の歴史学では、1086年に白河上皇が院政をしいたときが、中世の始まりとされることが多い。
7世紀末に唐から輸入された律令制は公地公民を原則としたが、それと並行して荘園が生まれた。荘園領主の力が強まった10世紀には律令制が崩壊し、国家財政が破綻したので、後三条天皇は1069年に荘園整理令を出し、文書に根拠のない荘園を没収した。これによって逆に文書に根拠のある荘園は公認された。
このとき多くの領主が国の課税をまぬがれるために上皇に荘園を寄進したので、建て前では全国が天皇の公領だが、荘園は上皇や公家の領地(院領)という荘園・公領制が生まれた。このように公式の「国」による支配と非公式の「家」による支配が併存する二重構造は、その後も1467年の応仁の乱まで続く。
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