荘園 (日本歴史叢書)
日本の中世を「封建制」と呼んでヨーロッパのfeudalismと同じものだと考えると、その歴史はほとんど理解できない。荘園(manor)には、騎士も農奴もいない。日本の荘園領主はヨーロッパのような在地領主ではなく、京都に住む不在地主だった。

このわかりにくい中世史を統一的にとらえるのが、著者の「職」(しき)という概念である。初期の荘園は、律令制の中で開墾した農地を私有できる例外的な制度だったが、次第に比重が高まり、11世紀の院政期以降は、耕地の7割以上が荘園になったと推定されている。これを支配する制度は律令制のように統一されておらず、ばらばらの荘園を

 本家職→領家職→下司職

という「職」の多重構造で支配していた。このうち本家は藤原家などの格式の高い貴族だが名目的な存在で、中心は領家だったが、これも京都に住んでいた。当初の「職」は一代限りだったが、次第に父系の「家」で世襲されるようになり、古代の「氏」と呼ばれた親族集団が、私的な「家」に分解する傾向が強まった。院政そのものが、天皇という律令制の君主の権威を天皇家の家長としての上皇の権威が上回ったものだ。

公地公民の律令制が解体されて貴族は私的な「家」になり、世襲される「家職」や「家領」として相続される荘園がその経済基盤になったが、このような間接支配は不安定だった。ヨーロッパの貴族は農奴を支配するとともに武力で領地を守ったが、本家も領家も武力をもっていなかったからだ。その権力を支えたのは何だったのか。

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