言語はこうして生まれる―「即興する脳」とジェスチャーゲーム―
経済学が社会科学の女王だとすれば、言語学は人文科学の女王だった。チョムスキーが1957年に出版したSyntactic Structuresは文法を数学的に表現し、人間が遺伝的にもっている普遍文法をコンピュータに実装し、人工知能を実現するように思われた。

しかしその後の言語学は混乱し、チョムスキーの理論は二転三転したが例外だらけで、人工知能も挫折し、今では標準的な理論が存在しない。普遍文法はほとんど中身のないルールになり、言語が遺伝的に決まっているという前提が疑わしい。

それを進化論で説明したのが、ピンカーの「言語本能」だった。これは言語に適応して脳の構造が進化したと考えたのだが、すぐ行き詰まった。遺伝的な進化は数万年単位で起こるが、言語は数十年単位で変わるので、それに適した遺伝子ができることはありえない。「言語遺伝子」として注目されたFOXP2は、類人猿にもマウスにもあることがわかった。

本書はこのアポリアを脱却するために、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の理論を使う。言語は先天的に与えられるのではなく、子供が母親とのジェスチャーゲームの中で習得していくものだという。言語は人間の特権ではなく、他の動物にもある学習能力の特殊な形態にすぎない。

ジェスチャーは言語に先立つ

チョムスキーも指摘したように、子供が親の貧弱な言葉から短期間に複雑な言語を習得するのは不思議な現象だが、それは人間だけではない。たとえば蜜蜂は、8の字ダンスと呼ばれる複雑な行動で、他の蜂に花の位置を知らせる。蜂は遺伝的な「普遍文法」をもっているのだ。



人間と社会性昆虫の共通点は、集団行動という同じ目的をもっていることだ。蜂はダンスで巣をつくる場所も提案する。このとき蜂が集団行動をとらないと、巣はつくれない。人間の赤ん坊も、母親の行動をまねないと自分で食物もとれない。

このような集団行動は、ほとんどの類人猿にはみられない。彼らはコロニーをつくらないので、他の個体と協力する必要がないからだ。人間の言語は類人猿よりも蜜蜂のダンスに似ており、相手と協力するための合図である。脳の「言語野」と呼ばれる部分は言語だけを処理しているわけではなく、いろいろな感覚の処理をしている。

人間が複雑な分節言語を話せるようになったのは、おそらく直立歩行で顎の動きが自由になったことによる偶然で、それほど古いことではない。それはたかだか10万年ぐらい前で、生存競争であまり有利にはならなかった。言語による共同作業が大きな意味をもつようになったのは、新石器時代に道具が発達してからだ。

脳は言語に適していない

8の字ダンスと言語が決定的に異なるのは、言語が遺伝的に決定されていないことだ。蜜蜂は生まれたときから8の字ダンスの踊り方とその読み取り方を知っているが、人間の赤ん坊は母親をまねる方法しか知らない。しかしどんな言語でも学習して記憶できるので、無限に多様な道具をつくれるようになった。

これは文化の進化を考える上で重要である。ソシュール以来の20世紀の言語学では「言語が思考をつくる」と考え、哲学者は言語をモデルにして社会の構造を考えたが、それは逆だった。言語はトマセロもいうように、他人と意図を共有して行動する脳の機能の派生物であり、複雑な分節言語である必要はない。

言語は遺伝的に決まっていないので7000種類ぐらいあり、その構造にはほとんど共通点がない。チョムスキーが普遍文法の最大の特徴とした再帰性(関係代名詞などを入れ子状に使う構造)も、インド=ヨーロッパ語族に固有の特徴である。そもそも文法という概念が、他の文化圏にはない。

言語によって人間は集団生活ができるようになったが、記憶容量の小さい脳の構造は言語に適していないので、それを補うために母親は繰り返し子供に言葉を教える。文字は5000年前以降の新しい記号で、複雑すぎて学校で教育しないと使えない。言語が遺伝的に決定されていたら、教育は必要なかっただろう。