呪われた部分 (ちくま学芸文庫)
岸田首相の「新しい資本主義」から斎藤幸平氏の「脱成長」に至るまで、資本主義を敵視する人は多いが、そのほとんどは19世紀的な温情主義で、思想としては取るに足りない。資本主義が剰余を生み出して共同体を破壊するメカニズムを原理的に批判したのはバタイユである。

マルクスは剰余を生み出す労働者を資本家が搾取すると考えたが、バタイユは人間はもととも消費する以上の剰余を生産する能力をもっていたと指摘する。狩猟採集社会では、1日4時間ぐらい働いたら生活できる程度の獲物がとれたが、獲物は貯蔵できないので、人々はそれ以上働かなかった。

人間が定住して農業を営むようになると、穀物は貯蔵できるので剰余が生まれ、不平等が発生した。それを防ぐには、剰余をすべて消費する必要がある。バタイユは、北米の先住民がその財産を使い果たすポトラッチを、剰余を蕩尽するしくみだと考えた。一部の人に富が偏在すると、その分配をめぐって紛争が発生するので、全財産を村中に贈与して秩序を維持するシステムを人類は構築してきたのだ。

贈与は剰余を「蕩尽」して平和を維持する

贈与は未開社会に普遍的にみられる。モースは『贈与論』で、贈与は戦争を避けて平和を維持するシステムだと考えた。これはホッブズの「万人の万人に対する戦い」を抑止する社会契約と同じだが、そのしくみはまったく違う。

社会契約は国家権力で強制されるが、贈与には強制力がないので、逃げられないようにする必要がある。ポトラッチでは全財産を贈与するので、そのまま逃げることができない。他のメンバーはそれに返礼する義務を負い、返礼しないと村から追放される。

ポトラッチは祝祭で、酒や音楽で多くの人を楽しませるが、それは消費したら終わりで、役には立たない。役に立つものを贈与すると、もらった人はそれをもらったまま他の村に逃げるインセンティブをもつが、宴会はそこで終わりなので、人々はそこに参加したら、お返しするしかない。

バタイユはこのような観点から効用(utilité)を原理とする経済学を批判し、社会を動かしているのは名誉(gloire)だという。人は贈与で名誉を得るが、贈られた側はその借りを返す義務を負う。人々は共同体の中だけで成り立つ貸し借りで、その秩序を維持するのだ。

資本主義は剰余を蓄積して不平等を生み出す

日本でも頼母子講のような相互扶助のシステムが広くみられた。東日本大震災では福島県の人々が自発的に助け合った行動が世界の賞賛を受けたが、それは互いに助け合って秩序を保つ日本人の文化遺伝子なのだ。強い権力者を排除する日本人の平等主義も同じ理由だろう。

日本的雇用も、徒弟修行という贈与で個人を企業にロックインするしくみである。これは丁稚奉公と同じで、長期間にわたる無償の労働がサンクコストになるので、他の企業に逃げるインセンティブがなくなる。逃げると、また最初から徒弟修行をやり直すことになるからだ。

国家も人々が王に名誉を与えて、平和を維持するしくみである。王の名誉を示す古墳やピラミッドは何の役にも立たないが、富を蕩尽することによって、富を独占する者が大きな権力をもつことを防ぐ。日本は天皇制でそのバランスを維持して平和を守ったが、王はしばしば権力と富を独占して、人々の脅威になる。

産業革命以後の資本主義は爆発的なスピードで剰余を蓄積し、不平等を生み出し、共同体を破壊した。その剰余(利潤)を社会に還元するしくみが市場だが、剰余はしばしば市場で処理できる限度を超えて蓄積されるので、それを定期的に破壊するシステムが必要になった。それが恐慌であり、戦争である。

もちろん剰余を蓄積する資本主義がないと成長できないが、サラリーマンが1日8時間以上働いて数千万円も貯蓄して死ぬのも不合理な行動である。石器時代人のように1日4時間働いて、あとは自由に遊んだほうが効率的な時間配分ではないか。