日本とオスマンは、19世紀のほとんど同じ時期に同じような対外的な脅威にさらされ、近代化を迫られたが、両国のたどった運命は対照的だった。日本は名目的な天皇を立てて国家を統一し、議会の弱い憲法をつくった。不平士族や自由民権運動を抑えるため、プロイセンをまねた行政中心の憲法をつくった。
それに対してオスマンではスルタンの専制権力が強かったため、その権力を制限する議会をつくった。イスラム法に西洋の法律を接合する形で憲法がつくられ、「新オスマン人」が西洋の法制度を学び、改革を進めたが、スルタンの権力を守ろうとする帝国の高官との権力闘争が続いた。改革派はクーデタでスルタンを退位させたが、スルタンは憲法を無視して改革派を追放した。
どっちも帝政でありながら、日本は近代化と成長に成功したが、オスマンでは混乱が続き、西欧やロシアの軍事介入で近代化が遅れ、第一次大戦で帝国は解体されてしまう。その原因は何だったのか。
続きは10月31日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンで(初月無料)
それに対してオスマンではスルタンの専制権力が強かったため、その権力を制限する議会をつくった。イスラム法に西洋の法律を接合する形で憲法がつくられ、「新オスマン人」が西洋の法制度を学び、改革を進めたが、スルタンの権力を守ろうとする帝国の高官との権力闘争が続いた。改革派はクーデタでスルタンを退位させたが、スルタンは憲法を無視して改革派を追放した。
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