日本を超一流国にする 長州 変革のDNA (双葉新書)
安倍元首相の国葬で印象的だったのは、菅前首相が弔辞で引用した、山県有朋の伊藤博文に対する惜別の辞だった。現実には二人の仲はよくなかったが、近代化において長州のもつ二つの面を代表している。伊藤は憲法や政党政治などの「表の顔」だが、山県は軍閥や元老などの「裏の顔」だった。

小さな村の中で平和に暮らす日本人の中で、長州は異質だった。古代から大陸と交流があり、大内氏は百済王家の子孫だった。毛利家は関ヶ原の戦いで西軍の総大将となり、敗北して本州の西端に押し込められたが、幕府の目の届かない裏日本で独自の発展を遂げた。

その特徴は、稲作だけのモノカルチャーを脱却し、桑や綿などの商品作物で生産力を上げたことだった。しかもこれを年貢とは別の撫育方という特別会計にし、その存在を幕府にも民衆にも隠した。この裏金を使って、関ヶ原以来の宿願だった倒幕の資金を蓄積したのだ。

徳川幕府が倒れたのは、19世紀まで稲作だけに依存し、商品経済に取り残されて財政が破綻した結果だが、長州は商品経済や金融で富を蓄積し、イギリスから資金も借りていた。下関戦争など海外との戦争も経験し、幕府の軍事力ではとても西洋諸国に勝てないことを知っていた。

「尊王攘夷」は長州の思想ではなく、水戸藩のカルト思想であり、現実には実行されなかった。吉田松陰や高杉晋作などの急進派が殺されると、尊王は残ったが攘夷は消えてしまった。明治維新は天皇という「玉」をかついで幕藩体制を乗っ取るクーデタだったが、それは当初、彼らが意図した以上の「革命」になった。

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