荘園 墾田永年私財法から応仁の乱まで (中公新書)
教科書では「7世紀に大和朝廷が成立し、律令制で公地公民になった」と教えるが、大宝律令が完成したのは701年。その及ぶ範囲も、近畿地方ぐらいだった。これは隋の均田制を輸入したものだが、全国民(成年男子)に同じ面積の土地を割り当て、相続も許さなかったので、土地を開墾するインセンティブがなかった。

そこで自分の開墾した土地を3代に限って相続を認める三世一身法ができ、743年には墾田永代私財法で無期限の相続が認められた。律令制は、たった40年間の制度なのだ。その後も口分田は残ったが、公地公民の原則は崩れ、開墾した土地は私有財産になった。

しかし荘園の所有権は明確ではなかった。土地の境界もなく、農民は地元に住んでいる荘官に農作物の一部を収め、荘官は貴族や寺社などの領家に上納し、その一部が京都の摂関家などの本家に上納される多重構造だった。このように所有権が多重に設定される「職(しき)の体系」が日本の荘園の特徴である。

中世ヨーロッパでも荘園(マナー)という言葉が使われたが、これは在地領主が一円を支配して農奴から地代を徴収する直接支配だった。ここでは領主が軍事力をもち、領土の安全を守る対価として農産物を受け取る契約が成立していた。

それに対して「本家」は不在地主であり、京都に住んで自分の荘園を一度も見たことのない貴族がほとんどだった。これは常識的に考えると奇妙である。なぜ農民は、土地を見たこともない本家に農作物を上納したのだろうか?

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