昔のファイルを整理していたら、2009年に週刊ダイヤモンドに書いた原稿が出てきたので再掲。古典だから、今でもそのまま使える。新学期の読書にどうぞ。

経済学に、古典と呼べる本は少ない。それはもともと時事的な問題を論じるジャーナリズムとして始まった学問だからである。ケインズは『人物評伝』で、こう書いている。
経済科学の進歩と日常の有用性とは、先駆者や革新者が体系書をさけてパンフレットやモノグラフのほうを選ぶことを要求するのではないだろうか。(中略)マルサスは『人口論』を初版のあと体系書に改めたさいに台なしにしてしまった。リカードのもっとも偉大な著作は、その場かぎりのパンフレットとしてものされたのである。

しかし真に偉大な古典は、時代を超えた経済の本質を明らかにし、現代の問題を考える役にも立つ。いま世界の直面している危機が「100年に1度」だとすれば、100年単位で経済を見つめ直すことも意味があろう。経済学の中心的な問題は、市場によって経済問題が解決できるかということだ。それにイエスと答えるのがスミス以来の主流派、ノーと答えるのがマルクス以来の反主流派だ。経済が成長しているときは前者の、危機に陥ったときは後者の影響力が強まった。こうした時代背景を考えながら、経済学の古典を紹介してみる。

アダム・スミス『国富論』:本書はケインズが「四つ折り版の体系書」として書かれた数少ない名著とした本だが、これも政治的な意図によって書かれたものだ。18世紀後半の英国は、産業革命によって高い生産力を実現していたが、当時の重商主義的な政策のもとでは、各国が既存の企業を保護するために独占の特許を与えたり、高い関税をかけたりしていた。これを廃止し、自由貿易によって分業の利益を享受することがすべての国の利益になると主張したのが本書である。
 
「保護や規制をやめて競争にゆだねよ」というスミスの主張は、当時の強者である英国の立場を代弁するものだった。しかし彼の理論は、同時代の重商主義者より一貫しており、歴史的にも正しかった。彼の理論の基礎にあったのは、人々が利己的に行動する結果、社会的にも望ましい結果が生じる、という「見えざる手」の考え方だ。これは実証的に導かれたものではなく、その背景にあったのは、神が世界を合理的に創造したという「理神論」の信仰だったといわれている。つまり利己心の追求が調和をもたらすという彼の理論の背景には、神の創造した秩序への信仰があったのだ。

カール・マルクス『資本論』:本書が政治的な目的で書かれたことはいうまでもないが、文体は過剰なまでにアカデミックだ。同時代のあらゆる文献を引用して衒学的な飾りが多く、観念的で読みにくい。経済学の本としてはリカードの労働価値説の二番煎じだが、貨幣の生成を論じる価値形態論や、剰余価値の発生を論じる「貨幣の資本への転化」などの狭義の経済学とは違う部分はおもしろい。
 
マルクスの問題意識は、等価交換の市民社会(市場経済)から資本家による不等価交換(搾取)が発生するメカニズムを解明することだった。金融危機を引き起こすのも、投資銀行の金融商品による不等価交換システムだ。それはさや取りによって価格を平準化するように見えながら、実は複雑な「仕組み債」によって高い利潤を作り出していたのだ。

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