長い江戸時代のおわり
朝日新聞の特集した豊永郁子氏の「白旗論」は目新しい話ではない。この元祖は、40年以上前に森嶋通夫の主張した「白旗・赤旗」論である。われわれの新著『長い江戸時代のおわり』の第6章から、これに関する議論を紹介しておこう。

池田  平和ボケの戦後第一世代からはずっと下なのに、ウクライナ戦争でトンチンカンなことを言って炎上したのは橋下徹さんです。大阪で政治家をやって日本維新の会を作ったころは、むしろ護憲派を批判するリアリストとして振る舞っていたのに、今回は「戦争で民間人が犠牲になるのはよくないから、ウクライナは降伏した方がいい」とか「戦争しないで『政治的妥結』すべきだ」などとTVやツイッターで繰り返しました。

ところが多くの人に批判されたら主張を180度急変させて、「ウクライナに『戦え』と言うなら、NATOは自ら参戦しろ」とか「政治家を民間人の人質と交換しろ」とか言い出す。支離滅裂で、何がいいたいのかわからない。

與那覇 私は今回の言動のおかげで、逆に橋下さんに一貫性を見出せるようになりました(笑)。最初は無抵抗主義の超ハト派で、途中から核戦争も辞さない超タカ派になったわけですが、これは「俺に後ろめたい思いをさせんなよ!」というメッセージでは一貫していると思うんですよ。

毎日ニュースで戦場となったウクライナの映像が飛び込んできても、なにもできない私たちとしてはただ後ろめたさを感じるしかない。そうした罪責感を消す方法の一つが、ウクライナが降伏して戦争が終わってくれること。もう一つが自分たちも直接参戦して当事者になり、「他の人に不条理を押しつけてはいませんよ」というポジションを獲得すること。その点ではハト・タカの垣根を超えて、彼が提示した二つの選択肢は一致しているわけです。

橋下さんはかつて、政策の面でも日本には珍しい「新自由主義」の政治家でしたが、多くの日本人が「新自由主義的」と見なして嫌っているのは、むしろそうしたエートスの方だと思うんですよね。とにかく自分が後ろめたく感じるのが嫌で、だからあらゆる詭弁や罵詈雑言を駆使して「俺は完璧に正しく、なにひとつ悪くない!」と強弁する。困窮している人を見たら「どうせ自己責任だ」、自分を批判する意見に対しては「利権で言ってるだけだろ」みたいな。

池田  彼に一貫性があるかどうかは疑問だけど、伝統的な左翼の護憲派とは違うという一方で、自民党の右派とも違うという差別化を考えてるんじゃないですか。かつて仲のよかった百田尚樹さんとか有本香さんのようなネトウヨとも決別してしまった。今度の選挙で野党第一党になるかもしれない維新がどういう立ち位置で戦うかを、彼なりに考えていたと思うんです。

ところが悲しいかな、外交・防衛についてはまるで予備知識がないものだから、テレビで行き当たりばったりに「そこは違う」などとコメントしているうちに、右でも左でも真ん中でもない、訳のわからない話になってしまった。日本維新の会の党としての見解は常識的なものですが、多くの人が橋下さんの意見を維新の方針だと思って、コアなファンが離れてしまった。これは維新としては大きな損失だと思います。

森嶋通夫の「白旗・赤旗論」

池田  また司法試験予備校の経営者で、護憲派としても知られる伊藤真さんが橋下さんの無抵抗論を擁護する様子を見て思ったのですが、今も日本人には平和を「話し合い」だけで獲得できるという思い込みがあるようですね。現実にはウクライナ軍が武器を置いたら、民間人も含めてロシア軍に人権蹂躙されて殺されるんだけど、彼らは「交渉で解決するために、武装抵抗はやめましょう」と言ってしまう。

こうした発想には前例があって、理論経済学で国際的な名声のあった森嶋通夫(当時ロンドン大学教授)が1979年、「赤旗・白旗論」を唱えて世間を啞然とさせました。もしソ連軍が日本に侵攻するなら、戦っても犠牲が出るだけだから赤旗に白旗を添えて即降伏し、むしろその後で寛大な占領を行ってくれるように条件交渉しましょうというわけ。

與那覇 平成のあいだ、非武装中立論の夢想性を嘲笑する根拠としてよく引用された事例ですが、私はそこには見落としがあったと思うんですよ。当該の文章の末尾には、森嶋がそうした提言をする理由として、大戦末期に玉砕しつつある沖縄の日本軍司令部からの通信を読解した体験を挙げている。それはやっぱり当時の日本の読者の琴線に触れるところがあって、だから逆に森嶋を批判した福田恆存は、その体験談自体が盛った話ではと疑問を呈しています。

池田  実際に橋下さんも批判されると「だったら沖縄戦はどうなんだ。早く降伏するのが正解だったじゃないか」と言い出す。しかし降伏すれば戦争裁判で処罰を決めるアメリカと、「ウクライナのネオナチはその場で皆殺しにする」と国営通信社が表明し、現実にブチャなどで大量虐殺をやっているロシアでは、相手がまったく違う。

クラウゼヴィッツの『戦争論』の著名な一節のとおり、戦争という行為自体が「他の手段をもってする政治の継続」であって、プーチンのような人権の概念が通じない侵略者には、武力で押し戻すという形でしか「交渉」できない。もちろんそれは非常に残酷なことなんだけど、リアリズムに立つ限り必ず伴う「後ろめたさ」に、ここからは日本人も慣れていかないといけないでしょう。

與那覇 万事につけ世界はネガティヴさに満ちており、私たちはそれを飼いならして生きてゆくほかないので、さらっと「後ろめたさゼロ」にしてくれるような政治はあり得ないわけですよね。その感覚を培う場が歴史という「暗い過去の共有」だったのですが、戦争から遠く離れた平成には存在感が薄れ、「この選択肢ならパーフェクトでノーリスク」といったプレゼンをする識者ばかりが増えていきました。