昭和陸軍と政治: 「統帥権」というジレンマ (513) (歴史文化ライブラリー)
戦前の歴史をゆがめた元凶は「統帥権の独立」だとよくいわれるが、その意味ははっきりしない。そもそも統帥権の独立という規定は明治憲法にはなく、それを定めた法律もない。その起源は明治初期の自由民権運動が盛り上がった時期に、軍を民権派の介入から守る慣例だった。

しかし昭和期には、軍が政府から独立していると解釈されるようになり、1930年に浜口内閣がロンドン軍縮条約に調印したことが「統帥権の干犯」として攻撃された。これは予算編成(政府の所管事項)が軍の統帥権を犯しているという奇妙な論理だったが、宇垣陸相は「予算編成権は政府と統帥機関の共同輔弼事項」という見解を公表した。

これによって軍は独立しているのではなく、政府と一体だということになった。陸軍の同意なしで予算編成ができなくなって軍事予算の膨張が始まり、陸軍が公然と政治に介入するようになった。その顕著な例が1937年の宇垣内閣の流産である。参謀本部の課長にすぎなかった石原莞爾が陸相の任命を拒否し、大命の降下した宇垣の組閣を阻止したのだ。

総力戦に適していなかった日本軍

統帥権の独立という考え方は、総力戦の時代には適していない。石原も武藤もそう考えていたが、それを逆用して軍民一体の「総力戦体制」をつくろうとした。その中では、対ソ戦を主眼とした石原に対して、武藤は来るべき世界大戦に備えて中国を日本の弾薬庫にしようとした。参謀本部では武藤の「対支一撃論」が主流となり、石原は追放された。

武藤はその後、北支派遣軍参謀副長に転任し、国民党軍の抗日意識の強さに驚き、戦争の長期化を覚悟する。陸軍の軍務局長になった彼は、総力戦体制をつくるために近衛文麿をかつぎ、ナチスのような「一国一党」の新体制をつくろうとした。

しかし武藤の構想は挫折した。みこしだったはずの近衛が武藤の意図とは別に政界の多数派工作に動き出し、妥協に妥協を重ねて、政党ではない正体不明の「大政翼賛会」をつくったからだ。これには当時のほとんどの政党が合流したが、意思決定システムがなく、近衛の優柔不断な性格で空中分解してしまった。

それを受け継いだ東條英機には、すでに事態の収拾は不可能だった。政府は軍を利用し、軍は政府を利用する混乱がきわまり、どこで戦争の方針が決まっているのかわからなくなったからだ。東條は中国からの撤兵問題で対米戦争を始めるというバカげた決定を行ったが、それを海軍も止めなかった。

統帥権の独立は法律ではなく陸軍のカルチャーであり、縦割りで縄張り意識の強い日本社会の伝統だった。大きな組織を体系的に統治するシステムがなく「現場」を掌握する実力のある管理職が強い発言権をもつ。この組織は近代の総力戦には適していないが、今も日本社会に根強く残っている。