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私は1992年11月に「追跡・不良債権12兆円」というNHKスペシャルをつくった(これはそのニュースハイライト)。これは住専(住宅金融専門会社)が巨額の不良債権を抱えているという番組で、不良債権というタイトルをつけた番組は日本で初めてだった。

当時、住専の最大手、日住金(日本住宅金融)が取引先に出した「回収不能な債権が4500億円」と書かれた秘密報告書が、銀行業界に大きな衝撃を与えた。これを私がNC9で報じたところ、翌日の日住金の株価がストップ安になって冷やっとした。

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それでも当時は不良債権が総額で12兆円といわれていたが、不動産バブルは予想を超えるスピードで崩壊した。最終的に2003年に清算が終わったときの純損失は112兆円で、そのうち46兆円を公的資金で埋めた。

最大の「戦犯」は大蔵省だった。1990年3月の3業種規制(不動産融資の総量規制)がバブル崩壊のきっかけだったが、1992年の住専危機で、銀行は不良債権を清算しようとしたのに、大蔵省の寺村銀行局長がそれを阻止した。

民間の破綻処理を寺村銀行局長が先送りさせた

この秘密報告書は1992年8月に三和銀行が出したもので、それを受けて宮沢首相が財界の軽井沢セミナーで「公的資金の早期投入」に言及した。これは(経営危機に陥っていた)興銀の中山素平氏の助言だったが、経団連は銀行救済に反対した。

私の番組のあと日住金の破綻処理の話が進み、清算会社と存続会社に分離して破綻処理する案がまとまった。これは母体行(3行)が損失をすべて負担するメインバンク方式で、他の銀行や農協系には金利減免を求めたが、農協系は減免を拒否して4.5%の金利を要求した。

寺村氏は農水省と取引し、農協系の債権を保全する代わりに融資を維持する密約を1993年2月に交わし、銀行にも残高を維持させた。民間だけで処理しようとした案を大蔵省がつぶしたことが、不良債権処理が迷走する決定的な分水嶺となった。

このころ日銀が「不良債権の損失は総額40兆円を超える」と推定し、銀行に財政資金を投入して資本増強する案を1993年初めに大蔵省に示したが、大蔵省は拒否した。公的資金が「銀行救済」と見られて世論の批判を浴びるというのが寺村局長の判断だった。

大蔵省の組織防衛のために金融危機を容認した

銀行を会社更生法などで破産処理できないのは、債権者(預金者)が膨大で、破産すると預金者が一斉に預金を引き出す取り付けが起こるからだ。住専は預金取扱金融機関ではなく、債権者が銀行だけのノンバンクなので、清算しても取り付けが起こる心配はない。

ところが銀行局に初めて勤務したのが銀行局長だった寺村氏には、そういう業界の常識がわからなかった。性格も非常に慎重で、銀行局の職員が「寺村局長になってから会議が2倍に増えて決まることが半分に減った」と嘆いていた。

彼は昭和恐慌の事例を研究し、公的資金を投入するのは銀行が破綻して取り付けが起こり、「預金者保護」として納得しないと無理だという。大蔵省の組織防衛のためには、金融危機を起すしかないという本末転倒の発想だった。

もっと早めに破綻が表面化していれば、資本注入するきっかけもつかめたかもしれない。たとえば住友銀行が1990年11月にイトマンを法的整理していれば、不動産市場がいかにひどいことになっているか明らかになり、大蔵省も危機管理に乗り出したかもしれない。

結果的にはイトマンも住専もメインバンクの処理にゆだねたので、体力のあった住友は乗り切れたが、他の銀行は処理できなくなった。それが政治問題になったのが、そこから3年たった1995年末の「住専国会」の騒動だったが、そのとき日住金は1兆5000億円の債務超過になり、民間だけ処理することは不可能になっていた。

寺村局長は、農協系に6850億円贈与する法案の決定に涙したというが、それが自分のおかした失敗の帰結だったことに今も思い至らないようだ。不良債権問題は、あらためて検証が必要だ。今後、国債が不良債権になる日が来ないとは限らないのだから。