縄文vs.弥生 ――先史時代を九つの視点で比較する (ちくま新書)
マルクス的な進歩史観は葬られたが、いまだに歴史を発展段階論で考え、その頂点に西洋近代社会を置く暗黙の通念がある。その一つが新石器時代という概念である。旧石器時代は狩猟採集で生活する移動社会だったが、約1万年前から新石器時代が始まって農業で生活する定住社会に進歩し、土器が使われるようになった、と教科書には書かれている。

しかし青森県で見つかった縄文式土器は1万6000年前のもので、これは世界最古の土器である。土器は定住社会でしか役に立たないので、縄文時代は新石器時代だが、農業の痕跡は3000年前よりさかのぼれない。つまり日本列島では、1万3000年にわたって農業なき定住社会が続いたのだ。

これは世界にも類をみない現象で、農業によって定住が始まったのではなく、その逆であることを示している。それは日本の歴史を「農本主義」で語るのは誤りだという網野善彦の批判を裏づけている。日本列島は次の図のように四季おりおりの自然に恵まれていたので、手間のかかる穀物をつくる農業は必要なかったのだろう。

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縄文カレンダー(小林達雄)

1万5000年前と現在はDNAは同じだが、日本人の文化的遺伝子は大陸から離れた平和な環境で、独特の進化をとげた。日本社会の中心だった「百姓」の原型は、網野もいうように潅漑農業で共同体に組み込まれた農民ではなく、漁業や林業で自由に暮らす縄文人だったのかもしれない。

1000年も保たれた「国家なき平和」

縄文時代のもう一つの特徴は、縄文式土器や土偶にみられるような装飾が多く、耳飾りの穴や入れ墨や抜歯などがみられることだ。このような身体を傷つける遺物は、稲作の始まった弥生時代にはほとんどなくなる。

このような装飾には、どんな意味があったのだろうか。それは想像するしかないが、人類学のデータから考えると、このような信仰を共有することが縄文時代には重要だったからだろう。入れ墨や抜歯は通過儀礼で使われるもので、大人になるための儀式である。

そういう身体的な「刻印」は苦痛をともなうが、他の部族では意味をもたないので、モースの贈与と同じ意味をもつ。つまり自分の身体を傷つけることによって、縄文人は「この部族でしか自分は生きていけない」という印をつけるのだ。

逆にいうと、縄文人はそれだけ自由に動くことができたのだろう。弥生時代以降は農作業の中で農民は共同体に組み込まれるので、このような儀礼は必要なくなる。入れ墨は「極道」の印であり、通常の社会からは排除される。

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三内丸山遺跡

網野は晩年に発見された三内丸山遺跡に強い興味をもち、そこに「非農民」の原型を見出している。縄文時代に主な食物だった栗は栽培された形跡があるが、それは単なる食糧ではなかった。栗の木は数十年かかって育てられ、大きな住居の材料になった。それは素人のつくれるものではない。縄文時代には、大工もいて共同作業が行われたのだ。

縄文時代は、戦争のない時代だった。農業がないと共同作業できないとか、国家がないと平和が維持できないというのは間違いである。三内丸山遺跡は、1000年以上にわたって同じ所に人々が定住したことを示している。そこでどうやって「国家なき平和」が維持されたのか、それが文化的遺伝子として現代の日本人にどう受け継がれているのか、想像してみるのもおもしろい。