無縁・公界・楽 増補 (平凡社ライブラリー)
網野善彦は今も人気があるが、実証史学の専門家には評判が悪い。彼が歴史の中に見出した「無縁」の民は存在したのだろうが、それが日本社会の主流になったことはない。少なくとも弥生時代以降の日本は農業社会であり、日本人の圧倒的多数は農民だった。

ではなぜ農業社会とは異質な「無縁」のエートスが日本社会に残っているのだろうか。それは中沢新一氏も指摘したように、農業社会の「底」が抜けた先に見えてくる石器時代の記憶かもしれない。

本書は網野の初期の代表作だが、最終章は「人類と「無縁」の原理」と題され、「無縁」の概念が未開社会に通じるのではないかと書いている。この問題は当時は実証的に明らかではなかったが、今では狩猟採集時代に形成された「古い脳」が人間の行動を支配していることが明らかになっている。

つまり網野が日本社会の異端と考えた「無縁」の民は、ホモ・サピエンスの歴史の中では圧倒的多数だった狩猟採集民(ノマド)なのではないか。網野のあげているエピソードには、そう考えると理解できる話が多い。

日本人の「古層」と「最古層」

これは丸山眞男が「古層」と名づけた農民のエートスとは異なり、自由を求めるアナーキズムの精神である。歴史的にはこれが遺伝的な行動と考えられるので、「最古層」と呼ぼう。これはカーネマンのいう「システム1」の下の「知覚」に相当する反射的な思考で、ほぼ遺伝的なものだ。

古層は定住社会のエートスなので、同調圧力や利他主義が支配的だが、最古層は1万年前までの狩猟採集社会のエートスなので、自由を求め、闘争を好む。網野が『蒙古襲来』などで論じた飛礫は、狩猟のために投石する最古層の本能だろう。

このような利己的な感情と同時に、集団を形成するための贈与のような利他主義も遺伝的なものである。この矛盾は社会生物学でも指摘されている人類の宿命だが、それを解決したのが国家だった。

国家はグレーバーも指摘するように無理のある制度で、狩猟採集時代にできた人類のエートスにさからう。人類はつねに移動し、自由を求めるので、同じ場所に集団で定住することには無理があるのだ。

国家ができると、軍事的には穀物を蓄積して城壁で武装する農民のほうが移動民より強くなるので、ノマドは社会の少数派に追いやられるが、スコットも指摘するように、農村は狩猟採集民の「獲物」になりやすいので、農業社会が絶滅することもある。

それでもノマドが絶滅しなかったのは、人類の最古層に狩猟採集民のエートスが残っているからだろう。これは遺伝的なものだから、国家に対抗して自由を求める衝動として人々を動かす。トップダウンの命令を徹底して拒否する日本人のアナーキズムは、こうした最古層に根ざしているのではないか。こう考えると、網野史学は現代社会を分析する道具にも使えそうな気がする。