資本主義だけ残った――世界を制するシステムの未来
最近、中国がいろいろ話題になる。こういう「収奪的」な制度のもとで資本主義は維持できない、というのがアセモグル=ロビンソンなど欧米リベラル派の主張だが、習近平体制はいまだに崩壊しない。

それは資本主義が、民主政治を必要としないからだ。中国の体制は、生まれたときから「社会主義」ではなかった。毛沢東の革命は中国の伝統的な農民反乱であり、結果的には資本主義を生みだす「本源的蓄積」だった。それはヨーロッパでは新大陸からの略奪で行われたが、中国では地主からの略奪で行われたのだ。

鄧小平が指導者になった1978年以降、中国の国営企業は激減し、今は20%しかないが、政治的な独裁は強まっている。これを社会主義と呼ぶのは無理がある。今や経済システムの選択は、資本主義か社会主義かではなく、どんな資本主義かの問題である。

本書はそれをリベラル能力資本主義政治的資本主義の二つに分類する。前者の代表はアメリカ、後者は中国である。かつてフクヤマは冷戦終了のとき『歴史の終わり』で前者の勝利を宣言したが、それは時期尚早だった。資本主義は社会主義に勝利したが、リベラル資本主義が政治的資本主義に勝利するかどうかはまだわからない。

「社会主義」という名の本源的蓄積

冷戦が終わったころ、「社会主義とは資本主義から資本主義への回り道だった」という冗談がはやったが、これはある意味で正しい。個人が土地と結びついた封建社会では、労働力を商品として売買する資本主義は成り立たない。地主から土地や財産を奪って国有化する社会主義は、結果的には資本の本源的蓄積だった。

だからロシアや中国のような資本蓄積の貧弱な国で社会主義が成功したのは、偶然ではない。それを「自然な発展」にまかせていたら、今の多くの途上国のように資本蓄積は行われず、貧困のために消費が伸びず、そのために資本が蓄積できない貧困の罠に陥っていただろう。

この意味で社会主義は、集権的に資本蓄積を強行する開発独裁に近い。こういう政治的資本主義ではイノベーションが生まれないので、国際競争には勝てないと思われていたが、1990年以降の中国の発展はそれを否定した。それはグローバリゼーションが新たな局面に入ったからだ。

ITの発達で情報の流通コストが下がったため、海外生産で技術が先進国から低賃金国に移転され、途上国の技術水準は急速に上がった。ここでは親会社と下請けのような序列はなくなり、半導体のようなキーデバイスをつくる企業がサプライチェーンの中心になる。

アメリカのハイテク産業の下請けだと思われていた台湾のTSMCが世界最大の半導体メーカーになり、中国のファーウェイを締め出しただけで、世界中の半導体産業が大混乱に陥る。ここではイノベーションよりも徹底的な資本蓄積が必要であり、それには政治的資本主義が適しているのだ。