人間知性研究 (近代社会思想コレクション)
またコロナの大流行が始まり、原因はオリンピックだとかデルタ株だとか、いろんな説が乱れ飛んでいるが、誰も証明できない。事実として与えられているのは結果のデータだけであり、その原因は推測にすぎない。

こういう科学の本質的な限界を初めて指摘したのはヒュームである。本書は彼の主著『人間本性論』の要約のようなものと思われて重視されないが、カントが読んで「独断のまどろみ」から覚めたのは本書である。

本書で重要なのは、因果関係を神の存在との関連で論じていることだ。無神論者と疑われて大学に職を得られなかったヒュームは、『本性論』ではこの問題を間接的にしか論じていないが、本書では(架空の2人の対話という形で)明示的に論じている。
私を攻撃する諸君は、神の存在(私が問題にしたことはない)を示す主要ないし唯一の論証が、自然の秩序に由来することを認めた。自然には知性とデザインのしるしが現れているので、その原因として偶然あるいは物質の盲目的な力を考えるのは法外である、と諸君は考える。(第11章105節、強調は引用者)
「世界の秩序がこれほど完璧なのは、その原因があるからだ」という議論の原因とは神の意図であり、現代のインテリジェントデザイン論と同じである。ヒュームはそのデザインを示す証拠がないかぎり、こういう議論は推測にすぎないという。これは当時としては大胆な無神論の表明である。
ある属性の痕跡が現在、現れているその程度においてのみ、われわれは、これらの属性が存在すると結論できる。これ以上の属性の想定は、単なる仮説である。(同上106節)
コロナの感染爆発の原因を「不十分な自粛が原因だ」としてロックダウンを主張する人も、「ワクチンのせいだ」として接種をやめるよう求める人も、その決定的な証拠を出すことはできない。それは医学が不完全な学問だからではなく、ヒュームが指摘したように、世界は確率論的に存在しているからだ。

科学はすべて統計的推論である

その例外が物理学である。万有引力の法則もニュートンの推測だったが、今のところ宇宙の果てまで正確に当てはまると考えられており、反証は見つかっていない。因果関係が主観的な推測だとすると、それがニュートンの意図とは独立に存在するのは奇妙なことである。

このパラドックスを解こうとしたのがカントだが、彼のいう先験的カテゴリーが存在する証拠はない。ヘーゲルはこれを壮大な観念論で証明しようとしたが、その根幹も彼の直観であり、物質の存在を説明できない。ラッセルが『西洋哲学史』で指摘したように、ヒュームは近代哲学の袋小路であり、その知的アナーキズムから先に進んだ哲学者はいないのだ。

最近の「新実在論」はヒュームの懐疑論を否定して先験的実在を証明したというが、それは世界は確率論的に存在するというヒュームの議論の焼き直しである。物理学が特権的にみえるのは、事象の確率が1になる偶然によるものだが、量子力学では物理量は確率分布である。科学はすべて統計的推論なのだ。

感染症は不確実性が大きすぎて、統計的推論も困難だ。まずデータを観測する「測度」を定義し、そのデータを評価する「目的関数」を決める必要がある。それなしでPCR陽性者数が増えたなどという無意味なデータで政策を決めるのは無知蒙昧というしかない。