社会保障は財政問題である。社会保険料という名前はついているが、給付に対して保険料は大幅に足りないので、一般会計から毎年40兆円近く補填している。これは一般歳出(政策的経費)の半分以上で、財政危機は社会保障の危機である。
これを今までは次世代にツケを回す国営ネズミ講で負担を先送りしてきたが、それはゼロ金利の時代には成り立つように見えた。MMTは、そういう錯覚の代表である。ビル・ミッチェルは次のように答える。
政府(中央銀行)はいくらでも通貨を発行できるので国家に予算制約はなく、問題は「実物的なインフレ」だけである。物価は政府が統制でき、金利は国営銀行が操作できるので、インフレにならない限り政府支出はいくらでも拡大できる。
企業の経営が悪化すると、モノバンクは際限なく融資し、その資金を返済する義務もなかった。政府が物価統制したので、インフレも起こらなかったが、経済は破綻した。その原因は、当初は計算量の問題だと考えられた。
社会全体の最適化問題には膨大なデータが必要で、それを刻々と計算する作業は、当時のコンピュータでは不可能だった。1965年に発表されたKornai-Liptakモデルは理論的には可能だったが、一度も実装できなかった。
しかしこのモデルの計算量は、今ではスマホでもできるぐらいわずかなものだ。致命的な欠陥は、官僚の裁量が拡大して経済が政治化したことだった。資本主義では企業が赤字を出し続けたらつぶれるが、モノバンクはいくらでも資金を供給できるので、国営企業はつぶれない。
いくら赤字を出しても決済は際限なく延期されるので、国営ネズミ講が可能になり、損失が蓄積する。つぶれるかつぶれないかを決めるのはモノバンクの官僚なので、企業にとっては生産の効率化よりロビー活動が死命を制する。
製品が売れなくても、企業は政府の命令に従っていれば資金が供給されるので、製品は改良されない。需要が供給を上回っても価格を上げないで資源を割り当てるので、インフレは起こらないが、慢性的な物不足が起こる。
結果的には社会全体で巨大な資源配分のゆがみが発生するが、それが企業の破綻という形で顕在化しないので、非効率性が蓄積し、官僚の腐敗が拡大し、国が腐ってゆく。それが社会主義の歴史が70年かかって示したことだ。
このような非効率性は、短期的には見えにくい。個々の企業を救済することは、そのときだけみれば事後的にはパレート効率的になることが多いからである。政府に予算制約がなければ、ネズミ講は無限に続けることができ、既存の借金が既得権になるので、後戻りできない。
同じことが今、日本でも起こっている。社会保障は史上最大のネズミ講だが、子ネズミが減っているので破綻は避けられない。それが日本の衰退の原因だったと気づくには、あと70年ぐらいかかるのかもしれない。
これを今までは次世代にツケを回す国営ネズミ講で負担を先送りしてきたが、それはゼロ金利の時代には成り立つように見えた。MMTは、そういう錯覚の代表である。ビル・ミッチェルは次のように答える。
MMTは政府の予算制約(Government Budget Constraint)では始まらない。我々はその概念を明らかに拒絶している。[…]政府の購入能力は金融的には無限である。
政府(中央銀行)はいくらでも通貨を発行できるので国家に予算制約はなく、問題は「実物的なインフレ」だけである。物価は政府が統制でき、金利は国営銀行が操作できるので、インフレにならない限り政府支出はいくらでも拡大できる。
社会主義経済は「政治化」する
ではインフレが起こらなかったら、政府支出と債務は無限に拡大できるのか。これはコルナイの描いた初期の社会主義に似ている。ハンガリーではモノバンクと呼ばれる一つの国営銀行がすべての企業に資金を供給したので、決済機能がなかった。企業の経営が悪化すると、モノバンクは際限なく融資し、その資金を返済する義務もなかった。政府が物価統制したので、インフレも起こらなかったが、経済は破綻した。その原因は、当初は計算量の問題だと考えられた。
社会全体の最適化問題には膨大なデータが必要で、それを刻々と計算する作業は、当時のコンピュータでは不可能だった。1965年に発表されたKornai-Liptakモデルは理論的には可能だったが、一度も実装できなかった。
しかしこのモデルの計算量は、今ではスマホでもできるぐらいわずかなものだ。致命的な欠陥は、官僚の裁量が拡大して経済が政治化したことだった。資本主義では企業が赤字を出し続けたらつぶれるが、モノバンクはいくらでも資金を供給できるので、国営企業はつぶれない。
いくら赤字を出しても決済は際限なく延期されるので、国営ネズミ講が可能になり、損失が蓄積する。つぶれるかつぶれないかを決めるのはモノバンクの官僚なので、企業にとっては生産の効率化よりロビー活動が死命を制する。
曖昧な予算制約が「ゆるやかな死」をまねく
このような曖昧な予算制約(soft budget constraint)が、社会主義の本質的な欠陥だった。意思決定の分権化ができていない社会では、政府が資源配分を決め、企業はそれに従う。製品が売れなくても、企業は政府の命令に従っていれば資金が供給されるので、製品は改良されない。需要が供給を上回っても価格を上げないで資源を割り当てるので、インフレは起こらないが、慢性的な物不足が起こる。
結果的には社会全体で巨大な資源配分のゆがみが発生するが、それが企業の破綻という形で顕在化しないので、非効率性が蓄積し、官僚の腐敗が拡大し、国が腐ってゆく。それが社会主義の歴史が70年かかって示したことだ。
このような非効率性は、短期的には見えにくい。個々の企業を救済することは、そのときだけみれば事後的にはパレート効率的になることが多いからである。政府に予算制約がなければ、ネズミ講は無限に続けることができ、既存の借金が既得権になるので、後戻りできない。
同じことが今、日本でも起こっている。社会保障は史上最大のネズミ講だが、子ネズミが減っているので破綻は避けられない。それが日本の衰退の原因だったと気づくには、あと70年ぐらいかかるのかもしれない。