MMTをもてはやしているのはアマチュアだけで、プロの経済学者はみんなバカにしているが、それほどナンセンスな理論ではない。MMTは独特の言葉を使うのでわかりにくいが、標準的な経済理論で整理できる。そのコアは二つある。

一つは「預金は銀行が融資で企業の口座に金額を書き込んだとき生まれる」という内生的貨幣供給理論(万年筆マネー)で、これは主流派の「銀行預金の乗数効果で信用創造が行われる」という理論とはまったく違うが、「資金需要がないときマネタリーベースをいくら増やしてもインフレにはならない」というMMTの予言はリフレ派より正しかった。

もう一つは財政についての理論で、国債発行も銀行の保有する日銀当座預金を政府口座に振り替えたとき行われるので、預金の制約を受けない。ビル・ミッチェルも明言するように「政府の購入能力は金融的に無限である」。不換紙幣はいくらでも発行できるので、政府には予算制約がないのだ。

国債は資金を国債保有者から政府に移すだけで、利用可能な資源の総量は(内国債では)変わらない。将来、国債を償還するときはその逆が起こり、政府から国債の保有者に資金が移されるが、このときも利用可能な資源の量は変わらないので、国債は将来世代の負担にはならない。

これがラーナーの機能的財政論で、私の学生のころまで大学で教えていた。ここでは財政の役割は失業やインフレをコントロールすることであって、財源を調達することではない。税は財源ではないのだ。これは荒唐無稽な話のようにみえるが、反論するのは意外にむずかしい。

国の借金は先送りできる

財政学の教科書に出ているのは、Bowen-Davis-Kopfの批判である:現在の世代は国債を使った政府支出で消費できるが、それを税で償還する将来世代は、そのぶん増税され、消費が減る。つまり国債は将来世代の消費の現在世代への移転である。これはよく国債の負担を「孫のクレジットカードでおじいさんが買い物する」という話だが、本当だろうか。

ここでは孫の世代が国債を償還するとき増税することになっているが、孫の世代も借り換えて負担を曾孫の世代に先送りできる。個人がこんなことをすると金利が雪ダルマ式にふくらみ、借金が返せなくなるが、政府は借金を先送りできる。

政府債務が先送りできる条件は、長期金利<名目成長率(r<g)で、債務が発散しないことだ。今の日本のようにゼロ金利が続く限り財政赤字を出す余地がある、というのがブランシャールの意見である。彼によれば、日本はGDP比2.5%のプライマリー赤字を続けても問題ないという。

この議論にも問題がある。彼らは政府債務が永遠に先送りできると想定しているが、文字通り無限の将来まで存在する政府はないので、いつか「最後の日」が来る。それが先進国では見通せる将来には考えられないので、このようなネズミ講(Ponzi Game)が可能になっているのだ。

ネズミ講はいつまで続けられるか

もし革命やクーデタで政権が交代すると、名目債務のデフォルトが行われ、国債は紙くずになる。これが中南米でよく起こることだ。投資家が政府の支払い能力に不安をもつと長期金利は上がり、インフレが起こる。したがってMMTは先進国に限定された理論である。「自国通貨を発行できる国はデフォルトしない」という話も、中南米では通用しない。

通常のマクロ経済学では、このようなネズミ講は不可能だと考え、いずれ政府債務は償還されて均衡財政になるというNPG条件(ネズミ講の不可能条件)のもとで最適化問題を考えるが、MMTはNPG条件を無視し、永遠にネズミ講が続けられると想定する。

ここでは政府のリスクはゼロだから、国債に金利はつかず、政府の予算制約は存在しない。これはMMTの生まれた1990年代には冷笑されたが、今はそれが現実になってきた。MMTがゼロ金利の原因を解明しているわけではないが、「永遠のゼロ」という想定は問題を単純化するには便利である。

MMTも無限に財政赤字を増やせると言っているわけではなく、財政赤字で需要が供給を上回ってインフレになったときは財政支出を止めるべきだというが、MMTには金利がないので、金融政策で止めることができない。

MMTの有効性は、ゼロ金利(r<g)状況がいつまで続くかに依存する。それは需給ギャップに依存するので、ブランシャールのいうように2.5%の「財政余地」があるとすれば、政府の「2025年プライマリーバランス黒字化」という目標は有害である。