ワクチン予約システムの騒動をきっかけに、また個人認証システムが議論になっている。この問題の解決法は簡単である。国民全員にマイナンバーのパスワードを配布して認証すればいいのだ。これはグーグルなどがやっているのと同じシンプルなしくみで、特に強いセキュリティの必要な手続きは2段階認証すればいい。ICカードなんて時代遅れである。
ところがこういう問題になると、日本では必ず「プライバシー」騒ぎが起こる。これは今に始まったことではない。1980年の税制改正で国民に一意の番号を振るグリーンカード(少額貯蓄等利用者カード)の導入が決まったが、所得の把握を恐れる金丸信などの政治家が共産党と一緒になって、法律が成立してから「プライバシーの侵害」を理由に反対運動を起こし、グリーンカードは凍結されてしまった。
その後も1999年に住民基本台帳法の改正で番号はできたが、住基ネット(住民基本台帳ネットワークシステム)に対する反対運動が強く、納税には使えなかった。2003年の個人情報保護法のときには、民主党は政府案より厳格な規制案を出した。これに日弁連やマスコミが合流し、背番号への恐怖をあおったため、住基ネットの機能は自治体の事務合理化に限定され、無用の長物になった。
2013年にできたマイナンバー(個人番号)も、反対運動の末に用途が細かく限定列挙されたため、法律にない用途に使えない。給付金にもワクチン予約にも、別々の番号をつけなければならない。このように日本人(特に政治家とマスコミ)が国民背番号をきらう原因は、意外に根が深い。それは日本の歴史に、国家が個人を直接管理するシステムがなかったからだ。
そんな中で日本が近代化できたのは、「家」への帰属意識を天皇制国家という大きな家に集約し、天皇のために死ぬという帰属意識をつくったからだ。社会保障も兵士の健康保険や軍人恩給をベースにつくられ、軍という大きな「家」の中で個人が守られるしくみだった。
このような「大家族」システムは終戦とともに破壊され、人々は個人として国家に管理されるようになった。国民健康保険や国民年金などの個人ベースの社会保障は、厚生年金などの「家」システムの補完としてできたのだ。
この制度は、サラリーマンと自営業者の格差を生んだ。前者は企業という「家」で雇用も所得も守られるが、税は源泉徴収で100%捕捉される。後者は「家」に守られないが、税の捕捉率は低い。平均所得はサラリーマンのほうが高いが、自営業者はクロヨンと呼ばれる低い捕捉率で可処分所得を増やし、守られてきた。
これが納税者番号で捕捉されると、税の公平性は高まるが、自営業者の失うものは大きい。彼らは自民党の集票基盤だが、「税金逃れがやりにくくなる」とはいえないので、プライバシーを盾にとって野党と共闘したのだ。
左翼の側でも共産党員や部落解放同盟など身元を知られたくない人が個人ベースの本人認証をきらい、自民党と合流して国民背番号をつぶした。役所も自民党から共産党まで一致して反対するシステムを導入できないので、バラバラにつくって他の役所と情報を共有しない。
要するにマイナンバーがこれほど使いにくいのは、日本人の脳内に「家」という中間集団で個人を管理するシステムが残り、それを抜きに個人を直接管理する「監視国家」への抵抗が強いためだと思われる。
そういう中間集団がまったくない中国では、よくも悪くも完璧な監視国家ができている。どちらを選ぶかは国民の選択だが、「家」意識に依存した個人管理システムにはコストがかかりすぎ、今回のような非常事態には対応できない。
その点では、マイナンバーですべての行政の認証システムを統一することが、行政デジタル化の決め手だ。これは、ある意味では新憲法でも変えられなかった「国のかたち」を変える改革であり、憲法改正より困難である。
ところがこういう問題になると、日本では必ず「プライバシー」騒ぎが起こる。これは今に始まったことではない。1980年の税制改正で国民に一意の番号を振るグリーンカード(少額貯蓄等利用者カード)の導入が決まったが、所得の把握を恐れる金丸信などの政治家が共産党と一緒になって、法律が成立してから「プライバシーの侵害」を理由に反対運動を起こし、グリーンカードは凍結されてしまった。
その後も1999年に住民基本台帳法の改正で番号はできたが、住基ネット(住民基本台帳ネットワークシステム)に対する反対運動が強く、納税には使えなかった。2003年の個人情報保護法のときには、民主党は政府案より厳格な規制案を出した。これに日弁連やマスコミが合流し、背番号への恐怖をあおったため、住基ネットの機能は自治体の事務合理化に限定され、無用の長物になった。
2013年にできたマイナンバー(個人番号)も、反対運動の末に用途が細かく限定列挙されたため、法律にない用途に使えない。給付金にもワクチン予約にも、別々の番号をつけなければならない。このように日本人(特に政治家とマスコミ)が国民背番号をきらう原因は、意外に根が深い。それは日本の歴史に、国家が個人を直接管理するシステムがなかったからだ。
「家」に依存した個人管理の限界
近代戦では、国家が個人を動員し、個人が国家のために死ぬシステムが不可欠である。江戸時代の戦争は「家」単位でできたが、近代国家では数百万人の国民を動員する体制が必要になる。それがデモクラシーの本質であり、そういう体制のできない帝政の国は戦争に敗れ、消えていった。そんな中で日本が近代化できたのは、「家」への帰属意識を天皇制国家という大きな家に集約し、天皇のために死ぬという帰属意識をつくったからだ。社会保障も兵士の健康保険や軍人恩給をベースにつくられ、軍という大きな「家」の中で個人が守られるしくみだった。
このような「大家族」システムは終戦とともに破壊され、人々は個人として国家に管理されるようになった。国民健康保険や国民年金などの個人ベースの社会保障は、厚生年金などの「家」システムの補完としてできたのだ。
この制度は、サラリーマンと自営業者の格差を生んだ。前者は企業という「家」で雇用も所得も守られるが、税は源泉徴収で100%捕捉される。後者は「家」に守られないが、税の捕捉率は低い。平均所得はサラリーマンのほうが高いが、自営業者はクロヨンと呼ばれる低い捕捉率で可処分所得を増やし、守られてきた。
これが納税者番号で捕捉されると、税の公平性は高まるが、自営業者の失うものは大きい。彼らは自民党の集票基盤だが、「税金逃れがやりにくくなる」とはいえないので、プライバシーを盾にとって野党と共闘したのだ。
左翼の側でも共産党員や部落解放同盟など身元を知られたくない人が個人ベースの本人認証をきらい、自民党と合流して国民背番号をつぶした。役所も自民党から共産党まで一致して反対するシステムを導入できないので、バラバラにつくって他の役所と情報を共有しない。
要するにマイナンバーがこれほど使いにくいのは、日本人の脳内に「家」という中間集団で個人を管理するシステムが残り、それを抜きに個人を直接管理する「監視国家」への抵抗が強いためだと思われる。
そういう中間集団がまったくない中国では、よくも悪くも完璧な監視国家ができている。どちらを選ぶかは国民の選択だが、「家」意識に依存した個人管理システムにはコストがかかりすぎ、今回のような非常事態には対応できない。
その点では、マイナンバーですべての行政の認証システムを統一することが、行政デジタル化の決め手だ。これは、ある意味では新憲法でも変えられなかった「国のかたち」を変える改革であり、憲法改正より困難である。