コロナショックの経済学
いまだに「何もしなかったら42万人死ぬ」という話を信じる人々がケンカを売ってくるのにはうんざりするが、「何もしなかったら」というのは、政策の効果をみるベンチマークであり、厚労省で発表するような数字ではない。経済学でも「すべての個人が合理的で完全予見だったらマクロ経済政策はまったく必要ない」という理論があるが、それを記者会見で発表する経済学者はいない。

ただしSIRモデルが無用の長物というわけではない。たとえば私が去年3月に紹介したファーガソンなどの集団免疫モデルでは、基本再生産数Ro=2.4で何もしなかったら、アメリカでは220万人、イギリスでは51万人が死ぬと予想した。現在のアメリカの死者が約60万人、イギリスが13万人だから、この予測はまったく的はずれというわけではない。

文字通り何もしない「丸腰」の状態で、指数関数でウイルスが増えるままにまかせると、60%が感染して集団免疫になるまで止まらない。西浦モデルはそれと同じモデルを使って死者42万人という数字を出したのだが、現在の日本の死者は1.2万人。これではベンチマークにさえならない。

こういう単純なモデルが大きく外れる一つの原因は、感染をコントロールする手段は政府の行動制限しかないと想定していることだ。次の図をみればわかるように、新規感染者数がピークアウトしたのは緊急事態宣言発令の直前である。これは行動制限で感染が減ったのではなく、その逆であることを示している。

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毎日新聞より

つまり「感染が増えて大変だ」とマスコミが騒ぐと、人々は自発的に外出を控え、感染が減るのだ。緊急事態宣言はそれを後追いしているだけである。本書の第3章は、こうした「自発的ステイホーム」の効果を統計データで検証し、人々の自発的な行動変化の効果が政府や自治体の行動制限よりはるかに大きいことを示している。

マスコミの脅しは飲食店の閉鎖より効果的

細かい話は本書を読んでいただくとして、第3章をざっと紹介すると、標準的なSIRモデルでは、βtをウイルスの伝達率、γを人々の隔離率とすると、実効再生産数Rt

 Rt=βt/γ

となる。これだと外出自粛で人々の距離γが大きくなった後にRtが下がるという順序になるはずだが、実際のデータでは例外なく、外出自粛率のピークは感染のピークの後になっている。これは感染が増えているという報道を見て、外出を自粛したものと考えられる。

本書ではβtを行動制限の効果β0と人々がマスコミで感染を知って自粛する効果β1にわけ、

 βt=(1-L)β0+β1ΔS/S

とする。ここでLは飲食店の営業停止などの行動制限率、ΔS/Sは未感染者の変化率である。基本再生産数Roを2.5、感染期間1/γ=7としてSIRモデルでシミュレーションすると、感染は人口の0.05%でピークに達する。これは集団免疫の閾値60%よりはるかに低い。行動制限を強めても、このピーク値は変わらず、ピークに達する期間は1.5倍ぐらいになった。

このモデルには疑問もある。ここではRoを英米と同じ2.5と想定しているが、日本の感染データから推定できるRtは昨年初めから1前後で、英米よりはるかに低い。これを説明するには、このモデルだと日本人のマスコミに対する感応度β1が非常に大きいと考えないといけない。

事実、本書のパラメータ推定ではβ1=2754という非常に高い値になっているが、これは奇妙である。普通はβは一桁なので、日本人が英米人の100倍以上も潔癖に行動したとは考えにくい。この差の大部分は、免疫機能に起因する「ファクターX」と考えるのが自然である。

ただ感染をコントロールする変数が行動変化だけだとしても、政府や自治体の行動制限より「自発的ステイホーム」の効果のほうが大きいという結果はおもしろい。有害無益だと思われているワイドショーにも、百害あって一利ぐらいあったわけだ。

これは緊急事態宣言の再延長を考える上でも参考になる。その効果のほとんどはアナウンス効果なので、飲食店の営業制限などはやめるべきだ。日本人はよくも悪くもマスコミを信じているので、脅すだけで行動は大きく変わるのだ。