肉中の哲学―肉体を具有したマインドが西洋の思考に挑戦する
20世紀の社会科学のスターが新古典派経済学だとすれば、人文科学のスターは言語学だった。チョムスキーの生成文法は言語をアルゴリズムに置き換え、自動翻訳や自然言語理解を可能にすると思われた。1980年代には、日本の第5世代コンピュータを初めとして、全世界で人工知能に生成文法を実装する国家プロジェクトができたが、すべて失敗に終わった。

挫折の原因も新古典派経済学と似ている。数学的に記述できる統辞論は言語のごく一部で、大部分は意味や文脈などの例外処理なのだ。それを処理するデータをアドホックに手作業で入力すると、そのコストが膨大になって行き詰まってしまう。

それを批判したのがレイコフだった。彼は1960年代にチョムスキーを批判し、自然言語を記号論理で書き換える「生成意味論」を提唱したが、70年代には一転して、言語の本質は論理ではなくカテゴリーだという認知意味論を提唱した。本書はこの理論にもとづいて、プラトン以来の西洋哲学を批判する。

これ自体はポストモダンによくある「ロゴス中心主義」批判だが、ポストモダンの場合は知的アナーキズムで決定不能になってしまう。言語の意味が相対的だとすれば、なぜ多くの人が同じ意味を共有するのか。それを決めるのがカテゴリーだとすれば、そのカテゴリーはどうやって決まるのか。遺伝的な普遍文法がないとすれば、経験からどうやって言葉が生まれるのか。

本書は、基本的カテゴリーは身体のメタファーで決まるという。脳は思考のためにできたのではなく、身体を動かすために進化したので、その機能は身体の各器官と結びついている。子供は外界を認識するとき、それを自分の身体の一部として認識するので、日常語には「顔をつぶす」とか「手先になる」というように、身体をメタファーにした表現が多い。そういう空間・時間認識が言語の原型になるというのだ。

21世紀の進化論的な科学

こういう発想は昔からあり、メルロ=ポンティは『知覚の現象学』で、身体をカントの超越論的主観性に相当するものと考えた。人間の認識に共通性があるのは、同じような身体をもっているからで、子供が親から自立するとき、その身体性も受け継ぐ。カテゴリーは先験的なものではなく、同じ経験を共有する人々が間主観的に形成する合意なのだ。

バレーラはこれをオートポイエーシス(自己組織化)と呼び、脳内のニューラルネットの構造と社会の構造にアナロジーを見出した。これはすべての生命に普遍的な構造で、フラクタルのように単純なプログラムを再帰的に適用して生物の複雑な形ができる。同じように言語を生成する理論ができるかもしれない。

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こういう話は1990年代に流行したが、言語学で実証するのはむずかしい。すべての人類は基本的に同じ身体をもっているので、同じような言葉ができるかというと、実際には語彙も文法も文化によって大きく異なる。そこに認知言語学が法則を見出したわけでもない。

レイコフ自身も、本書のあと数学が身体性にもとづいているという仮説を提唱して批判を浴び、身体性仮説はあきらめたようだ。その後は政治的イデオロギーでメタファーができるという議論に傾斜し、政治評論の本をたくさん出しているが学問的価値はない。

新古典派経済学も実証的に成り立たないことは行動経済学の実験で証明されたが、それは体系的な理論にならない。行動経済学のフレーミングは認知言語学のカテゴリーと同じだが、ニュートン力学のような美しい理論にはならない。認知文法もチョムスキーのような整然とした文法理論にはならない。

おそらくカテゴリーをつくる普遍的なメカニズムは進化だろう。最近のニューラルネットは、それをアルゴリズムとして表現できるようになったので、知性を解明する道具になる。ニュートン力学をモデルにした近代科学の生産性はもうないので、21世紀の科学はこういう進化論的な科学になるだろう。

20250317