科学革命の構造
「パラダイム」という言葉は今では日常語だが、1962年に本書が初めて使ったときは大論争が起こった。それは当時まだ主流だった論理実証主義やポパーの反証理論を否定する概念だったからだ。この論争は学問的には決着がついているが、「ビッグデータ」が万能のように思われている現代では、思い出す意味もあるかもしれない。

たとえば西内啓氏は「統計学は原データから帰納して法則を導き、計量経済学は理論から演繹する」という。このように演繹と帰納のサイクルで理論が検証できるというのは、100年前の論理実証主義と同じ錯覚である。いくら膨大なデータを集めても、そこから法則は帰納できないのだ。
きょうまで太陽が東から昇ったとしても、それを根拠にしてあすも昇るという事実は証明できない。きょう何かの理由で地球の公転軌道が変わって、太陽が地球から見えなくなるかもしれない。これはヒュームの問題として知られる近代科学の最大のパラドックスである。

ポパーは理論は観測で証明できないが「反証」できると考えた。これについては、本書のあげている年周視差のエピソードが有名である。地球が太陽のまわりを回っているとすると、遠くの恒星の見える角度は季節によって少しずれるはずだ。そう考えた16世紀のティコ・ブラーエは恒星の位置を実際に測定したが、年周視差は観測できなかった。これは地動説の反証といえるだろうか?

もちろんそうではなく、年周視差はあるが、恒星との距離が非常に遠く位置の差が小さいので、当時の観測技術では測定できなかっただけだ。事実は仮説によってつくられるのであって、その逆ではない。この仮説をクーンが「パラダイム」と名づけ、本質的に宗教と同じだとのべたことが論議を呼んだ。

科学も一つの信仰だとすると、その優劣を決めるのは実証データではなく学問政治だということになる。そういう思想を突き詰めたのが、ファイヤアーベントの『方法への挑戦』だが、ここまで来るとポストモダン的な知的アナーキズムで、大しておもしろくない。

むしろ論理的には何でもあるはずの科学の世界で、ニュートン以来の力学的世界観がずっと続いてきたのはなぜかだろうか。その一つの原因は、工学的に応用できるからだろう。中国でもアラブでもニュートン力学を応用した飛行機は飛び、量子力学を応用した半導体は動く。

しかし宇宙のすべての物理現象が(シュレーディンガー方程式を含めて)線形の方程式で記述できるのは驚異的である。これは最近の宇宙論で真剣に論じられている問題で、今のところ人間原理のようなトートロジーしか答はない。