反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー
人類の歴史の最大の岐路は、紀元前1万年ごろ始まった定住生活である。これによって農耕で生活が安定し、豊かになったと思われているが、最近の考古学調査はこの通念を否定している。農耕が始まったのは紀元前7000年ごろだが、大部分の人類は狩猟採集で生活していた。この時期の農民の人骨は狩猟民より小柄で、食糧が不足していたことを示している。

移動生活では4年に1人子供が産まれたのに対して、定住生活では2年に1人子供ができたといわれるが、これだと人口は数十年で倍増するはずだ。ところが紀元前1万年に400万人だった人類の人口は、紀元前5000年には500万人になっただけと推定されている。なぜ定住で人口は増えなかったのだろうか。

その最大の原因は感染症だった、と本書は推定する。定住生活では感染者と一緒に住み、排泄物や死体も蓄積するので、誰かが感染すると集落が全滅するリスクが大きい。そういう人口が突然消滅した遺跡が、数多く見つかっている。定住の始まった新石器時代初期は、人類史上もっとも死亡率の高い時期だったという。

ところがそれ以降の5000年で人類の人口は20倍の1億人に増え、その後も同じペースで増え続けた。これは人類が感染症を克服したからではなく、感染しても全滅しないシステムを発見したからだ。数百人の集落は感染症で全滅するが、数十万人集まれば、数万人死んでも、残った人々で集団免疫ができる。それが国家だった。

「農本主義史観」の見直し

本書は集団免疫という概念を使わないでこれを記述しているが、人類が感染症の淘汰圧に勝ったのは紀元前3000年以降だという。これは農耕の始まりから5000年以上遅く、「4大文明」と呼ばれるものができた時期だが、人間がそこだけに住んでいたわけではない。それだけが文明と呼ばれるのは、文字で歴史が書き残されたからだ。

人類の大部分は当時も移動民であり、定住民に寄生していた。移動民にとって定住民は格好の宿主だった。1年かけてつくった穀物を収穫期になって遊牧民が襲撃して奪ってゆく戦いでは、遊牧民が圧倒的に有利である。農民は逃げられないが、遊牧民は自由に動けるからだ。メソポタミアではこういう略奪が毎年繰り返され、中国の王朝の大部分は遊牧民の「征服王朝」だった。

移動民の優位性はその後も続いた。ローマ帝国を滅ぼした「ゲルマン民族大移動」の主役も遊牧民であり、ヨーロッパ人は遊牧民の末裔である。さらに船が発達してからは、海賊がもっとも効率の高いビジネスになった。その末裔がイギリス人である。

このように400年ぐらい前まで歴史の主人公は移動民だったが、こういう関係は近代に入って終わった。遊牧民が定住民を略奪するだけでは、宿主は滅びてしまう。遊牧民が支配者となったとき、彼ら自身が定住して農民と共生するようになり、歴史から移動民は抹消された。

しかし人類の歴史の99%以上は狩猟採集であり、農耕はごく最近の出来事である。土地を奪い合う戦争も、権力者が支配する国家も人類の宿命ではない。網野善彦も言ったように、今後はこういう「農本主義史観」を見直す必要がある。