「モノプソニー」という経済学者以外の人は聞いたこともない言葉が、ちょっと話題になっている。これはアトキンソンが最低賃金を上げる理由として提唱しているものだ。普通は最低賃金を上げると労働需要が減って失業が増えるが、企業(労働の買い手)が独占的な地位にある買い手独占(モノプソニー)の場合はそうならないのだ。

たとえばある町に、デパートが一つしかないとしよう。労働生産性は時給1000円だが、売り子の時給500円だとすると、夫が働いている主婦は、そんな時給ではばかばかしいので働くのをやめてしまう。ここで最低賃金が1000円になったとしよう。これは労働生産性に見合うので、主婦はパートで働くようになり、デパートも損しないので雇用を増やす。

このように労働者が職場を選べないときは、賃金を上げると雇用が増えることがある。普通の独占(売り手独占)では、独占企業が競争的な水準より高い価格をつけるが、買い手独占では、買い手が競争的な水準より低い賃金をつけるのだ。
買い手独占はミクロ経済学の教科書の片隅に出ているが、ほとんど誰も覚えていないだろう。Wikipediaに従って解説すると、競争的な労働市場では労働需要と供給のまじわるCで雇用が決まるが、買い手独占になっている場合はMになり、賃金は競争的な水準w'より低いwになる。

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このとき労働需要曲線はMRP(限界収益)曲線と同一になり、MRPがMC(限界費用)と等しいAで企業の利益は最大化される。しかし労働者は生産性より低い賃金wしか受け取れないので、労働供給はL'からLに下がり、労働の過少供給が起こる。

このとき最低賃金を引き上げて賃金をw'まで引き上げると雇用がL'まで増え、労働者も企業もハッピーになる。アメリカでは多くの実証研究で、最低賃金を引き上げても失業率は上がらないことがわかっている。

終身雇用という買い手独占

日本ではあまり実証研究はないが、ある意味ではモノプソニーの大規模な実験が行われている。日本の労働者は終身雇用で会社を選べず、賃金が労働生産性より低くても会社をやめることができないので、会社は買い手独占の立場にある。

こういう状況では労働者は高い賃金を求めて他の会社に移動できないので、人手不足でも賃金が上がらない。賃金は労働組合の交渉力に依存するが、正社員とパートタイム労働者の競争が激しくなると、労組は賃上げを自粛して雇用を守ろうとする。

労働市場が機能すれば賃金が上がり、労働生産性より低い賃金でやとっている企業は淘汰されるはずだが、日本では中小企業を手厚く守る規制があり、ゼロ金利が長く続いているため、生産性の低い中小企業が生き延びて人手不足が続いている。

中小企業は自民党の集票基盤なので、これを変えることは政治的にはきわめてむずかしい。雇用を流動化して労働者の外部オプションを増やすと、買い手独占の状況が変わって賃金が上がるが、これもむずかしい。

この「悪い均衡」を脱出するには、たとえば全国均一に時給1000円になったら、小売業などの自動化投資が進み、伝統的な小売店は廃業するだろう。日本社会のコアの部分が変えられないときは、最低賃金の引き上げも、一種のショック療法としては意味があるかもしれない。