皇国史観 (文春新書)
皇国史観というと日本の古い伝統のようだが、万世一系の天皇という概念ができたのは明治時代である。天皇が古代から日本の中心だったという歴史観は徳川光圀の『大日本史』から始まったもので、一般には知られていなかった。それを尊王攘夷思想にしたのが19世紀の藤田東湖や会沢正志斎などの後期水戸学である。

しかし尊王攘夷が明治維新の理念だったという話は、明治政府が後からつくった話で、当時の尊王攘夷は水戸のローカルな思想だった。それを信じていた水戸藩の武士は天狗党の乱で全滅し、長州にそれを輸入した吉田松陰も処刑されたので、戊辰戦争のころはコアな尊王攘夷派はほとんど残っていなかった。

水戸学の最大の影響は、水戸家出身の徳川慶喜が「大政奉還」という形で政権を投げ出したことかもしれない。これは代々「日本の国は天皇のものだ」という教育を受けてきた慶喜が天皇に名目的な権威を奉還するという形で幕府の延命をはかったものだが、薩長は幕府と徹底抗戦した。

戊辰戦争で幕府は圧倒的に不利だったわけではないが、慶喜が鳥羽伏見の戦いのあと大坂城を脱出したため、幕府軍は総崩れとなり、あっけなく決着した。このときも慶喜の頭には父の斉昭から教わった水戸家の教えがあったため、「朝敵」として戦うことができなかったのではないかと本書は推定している。

日本は天皇の統治する国だという歴史観は、反政府勢力だった薩長が掲げたものだが、幕府もそれを認めて江戸城を明け渡したため、皇国史観が国家をまとめるイデオロギーになった。明治維新は国民の大部分が知らないところで起こった「宮廷革命」であり、ばらばらの日本をまとめるのは天皇というフィクションしかなかったのだ。

天皇をめぐる二重構造

しかし絶対君主が国民を統治する伝統は、日本にはなかった。明治憲法を起草した井上毅は、西洋的な君主が「うしはく」(領有する)という原則にもとづいているのに対して、天皇の統治を「しらす」と表現する。これは臣下が天皇に仕えることを意味する天皇親政である。

これに対して伊藤博文は天皇が憲法に拘束される立憲君主体制を構想し、明治憲法は両者の妥協で「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」という規定になった。ここでは天皇は憲法に拘束されず、内閣も憲法になかったので、天皇親政のようにみえるが、実態は長州の「元老」が首相を決める藩閥政治だった。

こういう二重構造はその後も続き、長州閥が弱まってからは日本の政治が混乱する原因になった。官僚機構の主流は立憲君主制の天皇機関説(国家法人説)だったが、政治的には天皇親政が大きな力をもつようになり、1930年代には天皇機関説は禁止されるに至る。

ここに近代化の中で急いでつくった天皇というフィクションの弱点があった。それはもともと日本の伝統にはなく、国民の中に定着していなかったので、ファナティックな右翼が天皇親政を主張すると、その建て前論に引っ張られ、憲法を踏み超えて暴走したのだ。この対立は敗戦で終わったが、天皇のイメージは今も矛盾を抱えたままだ。