ミシェル・フーコー講義集成〈7〉安全・領土・人口 (コレージュ・ド・フランス講義1977-78)
コロナで全世界に起こったロックダウンや自粛にからんで、フーコーがよく引き合いに出される。近代社会は「一望監視」システムによる監視社会だというのは1975年の『監獄の誕生』で出てくる概念だが、本書(1977年の講義)では撤回している。
一望監視は最も古い主権者の見る最も古い夢だともいえます。私の臣民は誰も逃れてはならない、私のいかなる臣民のいかなる身振りも私の知らぬところであってはならないという夢です。[…]それに対して今や登場するのは、正確には個人的現象ではないような特有の現象を統治(および統治者たち)にとって適切なものとするメカニズムの総体です。(本書81ページ)
一望監視装置は君主の見る夢で、現実には存在しなかった。現実に古代の君主権力が行ったのは、疫病患者の排除だった。それが適用されたのが癩病(ハンセン病)で、ここでは患者は家族からも国家からも完全に隔離される。

中世末期のペストのとき、イタリアで生まれたのが検疫だった。これはペストに感染した患者を隔離し、都市を格子で区切って外出を禁じるもので、都市は見張りを行う総代の監督下に置かれ、違反者は処刑された。このような都市封鎖はコストが高く、現代でもロックダウンは長期にわたって続けることができない。

それに対して1720年ごろから出てきた新しい技術が、種痘だった。これはメカニズムが不明だったので初期には危険な医療技術とされ、それを接種すべきかどうか論争が起こった。だがその効果は経験的に明らかだったので、ジェンナーが実用化してから予防接種が広く行われるようになった。

生政治は究極の政治形態か

予防接種が成功すれば都市を封鎖する必要がなく、市民は自分の命を守るために接種に協力するようになった。これが人々が権力に自発的に服従する生権力の始まりだった、とフーコーはいう。この点でロックダウンは、ペストの時代の検疫への先祖返りともいえるが、今まで先進国ではほとんどとられたことのない政策である。

今回は最初に武漢で大量発生したとき都市封鎖が行われたが、先進国ではそういう対策はとられなかった。スウェーデンのような「集団免疫」戦略が普通だった。イギリスも当初そういう方針をとろうとしたが、批判を浴びてロックダウンに転換した。

しかしロックダウンで感染が止まるという実証データはない。武漢では接触を完全に禁止したら感染爆発が止まったが、ヨーロッパで行われたロックダウンで感染はほとんど止まらず、アメリカでは今も増え続けている。他方それよりはるかにゆるやかな自粛しかしなかった日本で、大幅に感染が少なかった。

この原因は、現代の世界では中世のペストのような対策はきかないことを示唆している。中世イタリアの都市は武漢のように全市民を監視してコントロールできたが、今の都市ではそれは不可能である。それより病院や介護施設のような特定の場所を徹底的に守ることが効果的だ。

フーコーは近代の福祉国家を「生政治」として批判したが、それに代わるモデルを見出せなかった。1978~79年の講義ではハイエクなどの自由主義に接近して、それを近代社会の統治のもっとも洗練された形態として評価する。

『性の歴史』シリーズでも最初に生権力を批判するという目的が提示されるが、それは挫折し、フーコー自身がエイズに感染して1984年に世を去った。生政治は乗り超え不可能なシステムなのかもしれない。